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zoom RSS 現代哲学思想による脱宗教化と倫理学・道徳の復権に向けて

<<   作成日時 : 2014/04/06 02:47   >>

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 私の主張はむしろ【哲学的「他者」教】とも呼ぶべき「倫理学」や「道徳」の復権である。哲学的に言えば「真理論」、「認識論」、「存在論」の重視から「倫理学」の重視への移行である。形而上学批判である。
 哲学では神や仏はその超越性を強調して「絶対他者」と呼ばれる。「他者」とは、自己に対する何ものかであり、自我に対する他者の我として「他我」があるが、他人の意識である他我をいかにして認識するかは、哲学上の難問とされる。レヴィナスは、人間が神や仏を概念によって同一化し、そしてその同一化された神や仏を振りかざして、他者を同一化する思考に異議を唱える。神や仏が意味をなすものであるならば、それは人間にとって他なるものでしかなく、決して同一化されることがないはずである。絶対的他者なる神や仏との関係性は、人間のエゴイズムを徹底的に無化し、他者に応答するかぎりで成り立つ主体性を構成する。そして、このような主体性は、他なる人間と倫理的関係に入ることを可能にする。
 他者は存在しない、存在するというのとは別の仕方で私に働きかける、もしくは存在でも悲存在でもない存在の彼方そのものである、とレヴィナスは言う。形而上学以後の宗教における心理的側面の強調、即ち宗教心理の主題化は、現代思想において批判される。心理的内省を通じて超越的次元と接続しようとする努力が、他者への配慮の欠落に帰結しているのである。「悟り」とは自己実現のことであり、他者への配慮は自己実現の肥やしとなってはならない。自己実現(悟り)が規範化されると、他者への配慮は自己実現の手段に過ぎなくなる危険がある。この危険を避けるためには、1.自我の脱中心化と自我とは他なるものの迎接という視点を維持すること、2.自己実現を規範にすることによって他者をそのためにの手段として遇する傾向に抵抗すること、3.主観的構成に回収されない外部性を有する他者との倫理的関係を保つこと、4.形而上学以後の宗教おける「ロゴス中心主義=自己の一神化」への批判的視点を有することである。
 他者よりも法への従順さを尊ぶような宗教性に異議を申し立て、他者との対立のなかで生じる心の葛藤への批判的洞察をふまえて、他者との倫理的関係を築くべきである。
 人間は自己であるためには他者を暴力的に同一化せざるを得ない。しかし、他者が他者である限り、他者は決して完全には同一化されえない。このような他者の現実性が乗り越えられないものである以上、われわれはそれに正しく応答する以外にはない。つまり、暴力的関係から倫理的関係に立つことを不可避的に要請されているのである。
 レヴィナスなどの【哲学的「他者」教】に見られるように、人間の内在性のなかから超越性を見出そうという動向、他者の尊重、他者への愛や配慮を理想とする自律的な自己放棄という「脱宗教的霊性」が、育ちつつある。世俗化の進んだ先進国の社会では、「自己」の超越という関心と「他者」への倫理という関心が、いずれも宗教に代わる霊性として拮抗するということである。
  蛇足になるが、「他者」と「他人」は異なるものであり、「他人」について認識する場合に、私の超越論的主観性による「他人」についての把握内容(構成内容)から漏れるものが必ず存在するが、それを「他者」と呼ぶ。神や仏の「絶対他者」に対しては、認識の対象にすらならず、把握不可能(構成不可能)であり、純然たる他者ということになる。


 現代思想が問い直そうとしている西洋の形而上学的伝統には、当然のことながら宗教がからんでくる。一般に、とくに日本では、現代思想と宗教との関連は薄いと思われている。たしかに、宗教への直接的言及は目立たない。しかし、彼らの形而上学批判は、軸の時代以後の宗教に宛てられたものとして理解することが可能である。
 たとえばJ・デリダは、神とも同一視されるロゴス(言葉、声、理性)を真実在とするロゴス中心主義を批判する。それは、ロゴスという本質とその外部からなる二分法を前提とし、本質との一致、本質の現前を真理とする。このような前提から、階層秩序的な二項対立をはらむ言説が次々と産出される。すなわち「パロール/エクリチュール」「内部/外部」「自己/他者」「同一性/差異」「本質/仮象」「善/悪」「精神/身体」「人間/動物」などの優劣を強調する二分法であり、「西洋/東洋」「男/女」などといった自己中心的な差別的言説である。そうして世界は階層化される。頂点に神が座し、それとの同一化、すなわち内部化の度合いが、階層内での位置を決定する。それはつねに他者の支配的同一化を狙っている。このような形而上学的言説を、デリダは脱構築しようとする。すなわち、二項対立のうち支配的な前者が実は後者に依存していること(もちろん優劣の単なる逆転ではない)を指摘しながら、境界線が決定不可能であることを暴露するのである。
 E・レヴィナスはこの事態を別の角度から検討する。人間が神を概念によって同一化し、そしてその同一化された神を振りかざして、他者を同一化する。そのような宗教のあり方を、レヴィナスは神の他者性を強調することによって批判する。神という語が意味をなすものであるならば、それは人間にとって他なるものでしかなく、決して同一化されることがないはずである。絶対的他者なる神との関係性は、人間のエゴイズムを徹底的に無化し、他者に応答するかぎりで成り立つ主体性を構成する。そして、このような主体性は、他なる人間と倫理的関係に入ることを可能にする。レヴィナスとデリダのあいだには微妙ながら決定的な差異もあるのだが、他者の支配的同一化を批判するという点、とりわけ宗教においてその一つの典型が見られるという認識に関しては共通するだろう(また、宗教のなかに、他者性を廃棄する主体性だけでなく、他者に応答し、他者を証言する主体性があることを認める点においても両者は一致する。
 アドルノとホルクハイマーは、自然支配の理性が、他者の道具的支配に転じてゆく様を批判する。まず、自然の力に驚かされて発した「マナ」という声が、神的力を喚起する呪力をもった言葉として使用されるという事例を、言語の使用の始まりを画する出来事としてあげる。神話において、人間は、言語を介して召喚された神を通して、自分自身を理解するようになる。ここにおいて、創造する神と秩序づける人間精神の同一化が図られ、自然はその客体とされる。啓蒙は、さらに主客の分離を断行し、人間と自然ないし神との親和的・類比的な関係性を断ち切り、理性の支配対象を外的自然と内的自然に定める。それは人間の自律を画する出来事であるかのように見えるが、実は、人間による人間の支配の連関、全体主義へと帰結するものである。かくして啓蒙は野蛮に帰する。アドルノは、自然との非支配的で非敵対的な関係性を模索する。決して同一化されない非同一性とのかかわり方として、最終的な肯定を目指さずに矛盾の論理である弁証法をそれとして徹底させてゆく「否定弁証法」を提示する。そして、未知のものを既知のものに同一化せずにあくまで未知のものとして経験する様態として「ミメーシス」に目を向ける。
 このような全体主義批判は現代思想の重要なモティーフである。全体主義は、他者を同一化しようとする西洋形而上学の帰結であり、そして近代における世俗化は形而上学的な宗教的思惟の衰退どころかむしろその国家規模での徹底であると考えられる。おそらくフーコーの仕事は、ソクラテス以後から近代国家に至るまで、他者への配慮がどのような段階を追って欠落していったかをたどったものとして読み直すことができるだろう。
 だがすでにソクラテス・プラトンにいたって、このような自己への配慮は、哲学的「真理」の探究と軌を一にする。以後、他者よりも真理を尊ぶ態度が次第にはぐくまれる。帝政ローマ期においては、政治的活動から離れた場面での自己への配慮が問題とされる。さらに、キリスト教においては、世俗外において、自己への配慮ではなく自己の認識がすすめられる。自己への配慮という利己主義は罪であり、自己を放棄して、隠された欲望の真理を認識して告白することが、魂の救済につながる。近代の道徳は世俗内の他者への配慮を説くが、そこでも自己への配慮は非道徳的なエゴイズムとして否定され、自己認識のほうが重視される。自己認識を重視するのは、道徳的自律を重んじるからである。そこでは具体的な他者への配慮よりも、むしろ他者への配慮を説く道徳的規則にどれだけのっとっているかという自己の真正さの検討がおこなわれる。こうして、自己への配慮を通じての他者への配慮は、自己の認識あるいは監視による近代的主体の構成にすり替えられ、対他関係は自己形成の肥やしとなる。宗教改革と世俗化を経てなお、自己開示の技術と自己認識の態度は受け継がれる。キリスト教の告白の技術は欲望を消し込んでゆきながら、一人ひとりを神と結びつけてゆくが、羊を一頭たりとも迷わせまいとするこの牧人型権力は、近代においては、人々を自律した主体として個別化し、一人ひとりを完全に世話することで全体化しようとする国家権力のモデルとなっている。
 現代思想家たちの宗教批判の要点は、次のようにまとめられるだろう。(一)神の概念的把握、および(二)神と人間の類比的同一化が、(三)他者性の廃棄につながり、(四)近代における個人主義と全体主義の結合を準備した、と。現代思想のこのような動向を、ここでは「他者論的転回」と呼んでおく。それは、普遍的なものへの自己同一化を目指す西洋形而上学の帰結が個人主義と全体主義であることを踏まえて、他者の他者性を同一化することなく、それでいて相互不干渉や相対主義にもとどまらず、他者と倫理的にかかわる仕方を模索しようとするものである(したがって、よく誤解されることだが、現代思想家たちの多くは相対主義的でもなければ個人主義的でもない)。
 他者の哲学をもっとも力強く説いたレヴィナスなら、その通り、他者は存在しない、存在するというのとは別の仕方で私に働きかける、もしくは存在でも非存在でもなく存在の彼方そのものである、とするだろう(L思inas 1977)。それは、自己と他者が互換的であるような現実のコミュニケーションの場面を度外視して、自己が自己であるかぎりにおいて、他者が他者であるかぎりにおいて、この他者について何が言えるかということを突き進めた、瞬間の思考である。デリダやアドルノは、レヴィナスほど極端ではなく、他者や非同一性を同一化しようとする暴力を自己がいやおうなしにはらんでしまうということの避けがたさを認める。にもかかわらず、いやだからこそ、この暴力をぎりぎりにまで落とし込むために、法の脱構築(デリダ)、概念の自己反省(アドルノ)というそれ自体完全には不可能な実践を敢行しようとするのである。レヴィナスの立場を「他者論」の極端な形態とするならば、デリダやアドルノの立場はむしろ「多元論」に近いかもしれない。しかし、他者の同一化に対するぎりぎりまでの抵抗という点では、彼らも「他者論的転回」を経た思想家とすることができるだろう。
 他者論的転回を経た現代の哲学者からすれば、心理学はその基本的前提において批判されるはずである。「心理学」という名辞は、文字通りに解すれば、精神と身体の二分法を前提として、より支配的な位置に立つ精神についての、ロゴスによる概念的把握を目指すものであろう。しかも、この場合の精神とは、形而上学的実体としての魂の、さらにその形相にあたるような諸機能のことを指す。心理学はその定義において、一つのロゴス中心主義を体現する。また、そこでは主観において構成されたかぎりでの他者しか問題になりえず(問題とするならば倫理学となる)、その点で心理学とはその対象の限定においてすでに一種の独我論である。さらに、心理学の実践的部門である臨床心理学・心理療法は、自己開示と自己認識の技術、すなわち自己のテクノロジーを引き継いでおり、対人関係が問題になるとしても、それは他者への配慮そのものに向かうのではなく、自己同一性の再構成をもって結びとする。つまり、心身二元論、独我論的認識論、他者への配慮の欠落という点で、「心理学」は、現代思想家たちから論難される資格を有するのである。
 現代思想が批判していたのは、形而上学以後の宗教における心理的側面の強調、すなわち宗教心理の主題化だった、と言うべきかもしれない。すなわち、心理的内省を通じて超越的次元と接続しようとする努力が、他者への配慮の欠落に帰結しているという点への批判である。この批判点が、超越的な次元への関心を失った世俗的心理学にもあるていど妥当するというのは当然のことかもしれない。
 心理学が宗教を対象化するとき、宗教は神的事象ではなく、あくまでも人間的現象としてとらえかえされる。したがって、神による救済、あるいは苦難からの解放/解脱は、人間の心理的成熟のプロセスとしてとらえられる。そして論者によっては、このプロセスは自己実現プロセスとして定式化される。一面的自我を越えた・より以上のもの・(世界・他者・無意識)に触れることで、潜在的可能性としての自己を実現してゆくというプロセスを、人間の心理的成熟のプロセスとしてとらえ、それがもっとも劇的に現れるのが宗教体験であると考えている。神を主語とする救済が人間を主語とする自己実現に取って代わられたことは、たしかに大きな断絶である。また、彼らは宗教的現象を超自然的現象として教義化する宗教を批判し、自然に生起する宗教体験にこそ宗教の本質があると見る。しかしながら、このような議論は、他者論的転回を経た思想家たちの批判する近代的自律の図式にそったものであろう。神と手を切ったといっても、より高次なる・自己・の実現に関心が移っただけならば、他者への配慮は自己実現の肥やしとなっているだけかもしれない。
 心的現象や心的現実としての経験が素材として重視されるユング心理学においては、他者そのものが扱われることはない。その点、彼の理論は徹底的に独我論的構制をとっている。しかし、そこでの「自我」と・自己・は通常の用語法を大きく逸脱する。ユングにとって主体が同一化するところの自我は、実はコンプレックスの一つでしかない。それは、最初から他者を同一化するほど大きくはないのである。自我は心の中心になろうとするが、そうすることでかえって自我の外部の暗やみにおびやかされてしまう。心の世界は、自我によって支配されることがなく、自我と対立するような無意識的内容によって満たされている。そして、これらの無意識的内容は、どれ一つ純粋に個人の生活史に由来するものはなく、人間精神の共通の構造として仮説的に設定される元型に由来する。・自己・とは、これらの意識と無意識を含んだ心の全体性とされるが、そのような自己は個人のものではなく、集合的次元に根差している。したがって、ユング理論は独我論を突き進めることで、独我論の不可能性に到達し、自己そのものが他者によって構造化されていることを突き止めたと言うことができるだろう。
 独我論の果てにたどり着いた「自己の他者性」「内なる他者」が突きつける哲学的難問を軽視してはなるまい。それは現代の深層心理学ないし力動的心理学が共有している知見であり、この立場からすれば自己と他者の素朴な二分法こそ超克されねばならないとされるであろう。もちろん、哲学的他者論で言われる自己と他者は、人格的同一性の差異に還元されるようなものではない。そこで問題とされるのは物のカテゴリーや人格的同一性を超えたメタカテゴリーとしての・同・と・他・であり、レヴィナスによれば主体性とは・同・のなかの・他・(自己に回帰して同一性を構成することがないような自己性)としてとらえ返されるのであり、またリクールにおいて、同一性と区別される自己性とは「他者のような自己自身」とされるのである。「傷ついたコギト」を認知したあとでの自己論という点に注目すれば、現代思想は「自己の他者性」や「内なる他者」を発見したフロイト以後の哲学と言ってもよいのである。
 宗教心理学は、他者の他者性の直視を契機とするということである。しかしながら、自己実現が規範化されると、他者への配慮は自己実現の手段に過ぎなくなってしまうという危険もある。また場合によっては、心のなかの他者しか見えなくなってしまうという陥穽もあった。宗教心理学が、他者論的転回を経た現代思想の厳しい審問に耐えうるようなものになるとしたら、それは次のような条件をクリアしなければならない。すなわち、(一)自我の脱中心化と自我とは他なるものの迎接という視点をこれまで通り維持すること、(二)自己実現を規範とすることによって他者をそのための手段として遇する傾向に抵抗すること、(三)主観的構成に回収されない外部性を有する他者との倫理的関係を保つこと、(四)かつ形而上学以後の宗教における「ロゴス中心主義=自己の一神教」への批判的視点を有しているもの、ということになるだろう。レヴィナスの「存在論より倫理学を優先させる」というスローガンを借りるなら、「心の存在論から心の倫理学へ」という転換、心一般のあり方の解明から、ユニークな心と心の倫理的関係を媒介する実践へという転換が図られねばならない。そのような方向性を持つものこそが、他者論的転回以後の宗教心理理論にふさわしいことになるであろう。
 フロイトの宗教批判は有名であるが、その眼目は、神についての認知的命題への信仰が衰退するなかで、道徳の根拠を神の罰の恐怖のみに置くことは危険であるという点にある。それに代わって、人間共同体の存続という合理的根拠にもとづく破壊性の断念、他者のためにありたいというエロスの発動に、宗教以後の倫理の命運が託されたのであった。ここでは「神の法」の権力的効果を暴き、他者、他なる人間のために生きることが要請されている。
 フロイト思想のこのような側面は、権威主義的宗教を批判し、人間主義的宗教の可能性を展開したフロムにも見いだされる。また、自律と共同性が同時に実現されるような相互性のなかで人間が生き生きとする状態を各発達段階に見いだし、それを人間の本来的な力強さ、「徳」として記述し、そのうえに壮大な心理学的倫理学、「心の倫理学」を提示したエリクソンもまた、硬直した道徳性を批判し、宗教における権威主義との葛藤を問題化している。彼らは、ユングやマズローのように大文字の・自己・を立てることなく、したがって自己実現のために他者を手段として遇するという陥穽にもはまらず、他者よりも法への従順さを尊ぶような宗教性に異議を申し立て、他者との対立のなかで生じる心の葛藤への批判的洞察をふまえて、他者との倫理的関係を築こうとする「心の倫理学」を打ち立てたということができるであろう。
 転移とは、精神分析的治療の場面において、被分析者が、過去の重要な対象関係におけるのと同様の振る舞いをすることを言う。フロイトは、転移を、過去の対象関係のあり方を患者自身に自覚させるための手段として重視したが、それはあくまでも症状の一環であり、その正体が暴かれてしまえば、転移も症状も、もはや生じる必要がなくなると考えた。哲学的用語法に置き換えれば、転移とは、主観的に構成された他者表象を目の前の他者に押し付けるという錯誤のことである。フロイトが転移を解消しようとするのは、他者に誠実であるような真正の自己に近づくためである。この論法は宗教論においても見いだされる。フロイトはいわば神への転移から離脱し、目の前にいる人間の同胞に誠実であるような真正の自己に近づくよう説いているのである。
 フロイト以後の流れでは、転移を純粋に分析場面で起こるものとする用語法の枠は外され、分析場面以外の対象関係一般とのかかわりにおいて転移を理解することが可能になった。それによって、転移は解消されるべき過去の感情の反復というよりは、対象関係のたえざる再創造の一環とされる。転移から脱却するよりも、転移の操作を通じて自己とその対象との相互関係をより豊かなものにするべきだ、と考えられるようになった。宗教論においても同様の変化が見られる。
 ここでは、転移という仮象の打破や、「純粋な関わり」を結ぶことのできる真正の自己が目指されることはない。ある転移という仮象が別の転移という仮象に置き換えられてゆくだけである。もともとフロイトにもありユングやヒルマンにおいて強められてゆく「仮象の多産性」への注目が、「真正の自己」へのこだわりから解放されたわけである。
 他者に誠実であるような真正の自己を目指すフロイトと、関係の仮象性を逆手にとって多産性へと転じてゆく対象関係論・自己心理学の流れとを対比したが、これと同様の相違は、他者論的転回を遂げた現代思想家たちのなかにも見いだすことができる。前者は、他者に適切に応答する唯一独自の「私」(「自我」ではなく)を擁護するレヴィナスの他者論に近く、後者は、自己と他者の二分法に反対し、他者が私に関わる他者であるためには他我でなければならないことを指摘したデリダに近く、これは純粋な他者論というよりも多元論と呼んだほうがよいだろう。相互に対称的な自我同士の横並びの共同性を描くような思考を、レヴィナスは、他者性の全体性への回収として批判し、それに対して、自己と他者の非対称性に基づく倫理的関係のあり方を描こうとする。しかし、ここで言う多元論の関係性のあり方とは、全体論のそれとは異なり、相互的非対称性を特徴とするものである。われわれは、自己であるためには他者を暴力的に同一化せざるをえない。しかし、他者が他者であるかぎり、他者は決して完全には同一化されえない。このような他者の現実性が乗り越えられないものである以上、われわれはそれに正しく応答する以外にない。つまり、暴力的関係から倫理的関係に立つことを不可避的に要請されているのである。しかし、このような他者は、自我を持つことなき絶対に私と無縁な他者ではなく、私と似たような自我をもつ他我としてしか、私には経験されえない。
 リクールは、コフートの両極的自己の枠組みの哲学的含意を探る論考において、臨床における転移と哲学における思考実験はともに自己と他者の関係性を際立ったかたちで照明するという前提に立ち、受容し承認してくれる対象を求める「鏡映転移」をヘーゲルの主人と奴隷の弁証法と対比し、理想的他者と関わろうとする「理想化転移」をレヴィナスの他者論と対比し、他の人間を自分自身のように経験しようとする「双子転移」をフッサールの他我論と対比している。対比の末に厳密な体系を描こうとするものではないと断ってはいるものの、リクールがそこで示そうとしているのは、哲学史上は鋭く対立すると思われる他者の諸理論が、いずれも関係性の心理の契機の一つを際立たせたものに過ぎないということであろう。
 現代思想による宗教心理学の審問という本章での作業が、どのような意義を有しているのかについて述べておこう。L・フェリーによれば、現代社会における世俗化のますますの進展、「義務の終焉」とも呼ばれるような事態は、実は外的義務の終焉に過ぎない。レヴィナスなどの哲学的「他者」教に見られるように、人間の内在性のなかから超越性を見いだそうとする動向、他者の尊重、他者への愛や配慮を理想とする自律的な自己放棄という「脱宗教的霊性」が、むしろ育ちつつあるとフェリーは考える。まず、神の人間化が起こり、権威主義的な法の神より、人間的な愛の神の再発見が、宗教の重要な課題となる。それと呼応して、人間の神化が起こり、聖なるものとしての人間への配慮や共感が、自らの内的必要として目指される。人類全体との連帯を志向するがゆえに、他者のために、内側からなされる自律的な自己犠牲、この「他者」教とも言える動向を明確化し、それを支持してゆくことが、自己本位の傾向に対する必要不可欠な歯止めともなる。
 神の人間化、人間の神化、神性をもった人間同士の愛へと進むこのような傾向を、フェリーはヒューマニズムとして一括するが、すでに見たように現代思想家たちの多くは神と人間のアナロジーと、「神人」たちの連帯による他者の排除に異議を唱えている。したがって、フェリーが描いている動向は、正確には「他なる人間のヒューマニズム」と呼ぶべきであろう(レヴィナス支持を一貫するのであれば)。また一元的連帯ではなく他者性を尊重した連帯、多元主義的連帯でなければならない。
 外的義務の拒絶から「真正の自己」を求め、自己超越への関心に終始する動きとして、セラピーの興隆や東洋宗教への関心をあげていることである。そして、それに代わるものとして、他者論によって告知されつつある新たなヒューマニズムを取りあげ、それを脱宗教的な霊性として評価しているということである。図式的に理解するなら、世俗化の進んだ先進国の社会では、自己の超越という関心と、他者への倫理という関心が、いずれも宗教に代わる霊性として拮抗するということである。
 宗教研究が、宗教以後の霊性をもその視野に収めるとするなら、他者論的転回以後の動向をも注意深く追う必要があるだろう。そして、宗教心理学が思想的には自己実現論を展開してきたという経緯をふまえるなら、現代哲学における他者論的転回のインパクトを受け止め、転回以後の宗教心理の理論の可能性を問うべきでもあるだろう。


【レヴィナスの思想】
 レヴィナス哲学が本質的に倫理学であるならば、そこでは当然、善と悪とが問われる。
 「悪」は存在への固執に由来する。主体が自己の存在を肯定するために他者と関係する時、他者の他性は必然的に否定される。「他」は「同」によって承認される場合にのみ「他」でありうる。この関係に潜む暴力を、ヘーゲルは承認への闘争によって、それを翻訳したサルトルは対他存在の論理によって描き出した。主体の正のこの求心的な運動は、レヴィナスにおいても本質的である。しかし、この運動は、苦痛と「ある」(il y a)において限界を知る。苦痛は、苦しむ自己の存在に縛られ、存在から脱出できないことに由来する。極限において苦痛は、内世界的な活動からその意味と可能性とを奪い取る。残るは無意味な自己の存在の事実のみ。これに対し純粋動詞的な存在一般たる「ある」はさらに、主体の存在の自己性までもが消滅する体験として描かれる。光なく言葉なく、存在者の形なく、世界の文節も主体もなき存在の情態(創世記1−2)。死も不可能な「恐ろしさ」。「誰」の情動でもなく「存在の意味」の問を立てる間もないこの存在の過剰は、忘却も安眠も許さぬ「存在の苦痛=悪」をなす。例えばサルトルの即自存在とも解釈されかねないこの存在の無意味な過剰はしかし、存在論的事実に収まらない。存在が究極的に倫理学的に無意味ならば、苦の名の下に行われるどんな暴力も最終的には悪ではなくなる。レヴィナスにとって、存在の無意味は、正/不正以前に存在自体に由来する悪の開示である。こうして存在に固執する限り、他者への暴力、苦痛、悪から逃れることはできない。
 主体が存在の悪と暴力とに耐えうるのは、苦痛が他者の苦痛を痛む形に二重化されるからであり、善によって予め方向・意味づけられ、予め「他のために在る」からであるとすれば、その要請自体に存在論的根拠はない。主体が自由に善を選ぶのではなく、善が主体を常に既に選択してしまっている(一方通行、不加逆性)。この点でレヴィナスは、自由と法との関係を論理的に解明しようとするカントとも別れ、善のイデアが存在を超越するとしたプラトンを評価する。善は存在/非存在、自由/隷属の対立を超えた意味の過剰であり、存在の何ではない「存在のいかに」(【存在するとは別様に】)である。また「善による選択」の概念に、神による民の選択というユダヤ教の伝統を読むのは間違いではない。彼の努力は、神を絶対的他性として、常に現前から思考される存在問題から切り離す所にある。
 他に依存しない存在の自足(自律)を破り、他者への倫理関係(他律)の第一次性を説き、存在論の伝統を転倒させて第一哲学としての倫理学を主張するレヴィナスは、今日最も独創的な思想家の一人と呼ばれるに値する。


【ヴァルネラビリティ(可傷性・暴力誘発性)】
 レヴィナス倫理学の中枢概念の一つ。倫理主体の主体性は、悟性や理性によってではなく、感性において定義される。その意義は、主体の倫理性が、分析し、比較し、判断し、立法する知性の自由に左右されない、という点にある(カントの実践理性との相違)。レヴィナスにおいて、「責任」は意志的当為ではない。
 主著『全体と無限』でレヴィナスは、感性を、個体たる主体の正の「享受」に属す一様態だと考えていた。享受は、自らの生を自由に「味わう」こととして主体の生の本質的エゴイズムを基礎づける。「パンひとかけらのために他人を殺害する」、これがエゴイズムの論理である。
 第二の主著『存在とは別様に』を準備する過程でレヴィナスは、感性についての解釈を翻し、感性を享受の上位に置き、感性を享受と「可傷性」との二様態から成るものとした。生身の主体が、他者が振う暴力に傷つくという当然の事実をこえて、他者の負う傷に、その悲惨に傷つく、これが可傷性である。ただし、他者の悲惨を、目に見える事実上の貧困・病苦・負傷に限って理解してはならない。主体が関わってくる他者は、強者・富者であっても、その素顔(ヴィサージュ)においては絶対的弱者であり、素顔は、死を前にした悲惨の極みから主体に向けて「汝殺すなかれ」と呼びかけ、叫んでいる。ひとが他者の事実上の悲惨を前に心動かされざるをえないとすれば、それは、素顔の呼びかけを否応なしに感受する、他者の非現実的な悲惨に無感覚ではいられない感性の構造に由来する(差異に対する非・無関心)。素顔の呼びかけによって主体は、自らが課した訳ではない、自分の過失に由来しない他者の苦痛・死・悲惨に対する「責任」を呼び覚まされる。従って、主体が自由に責任を「引き受ける」(サルトル)のではなく、自由がその責任を問われるのである。
 感受と可傷性は感性の等根源的な二様態をなす。素顔の呼びかけに無反応ではいられない可傷性によって、主体は他者への応答に迫られる。その応答は、いかなる私的・公的利害とも共調しない無償の贈与をなす。素顔の呼びかけによって主体は、享受の利己的自由と無償奉仕との相反する二極に引かれる。可傷性は従って、主体を享受の外へと単純に連れ出す訳ではない。私的享受、つまり失うものなくしては、贈与の倫理的意味が失われる。享受が無垢ではないこと、すなわち、既に貧しい自分が更に与える苦痛を前に享受へ撤退することが暴力行使であり、存在が既に負債たることを告げる他者の素顔の呼びかけへの感受性(他律による開示)が可傷性の内実をなし、失う苦を超えて無償の贈与を行うのが責任の実現形態である。
 他者の苦を苦しむ感性である可傷性は、他人の痛みを”思いやる”といった道徳の能力とは無縁であり、「他人の痛みは如何に理解可能か」という認識論上の問いとも関わりがない。それらの問いは、予め能動的で自律した主体を前提しているからだ。可傷性の概念によってレヴィナスは、主体を能動性によって定義する近代哲学の伝統と岐れ、主体を絶対的受動性・他律によって定義するのである。


【ヴィサージュ(素顔)】
 レヴィナス倫理学の中心概念。自我の機能の射程を超越する「絶対に他なる者」としての他者は「素顔」において出現する。
 レヴィナスは『デカルト的省察』の「第五省察」でフッサールが試みた他我構成の不備から出発する。その結果は、他者は私に似ている限りにおいて自我と同じもの、他我であり、その他者性は、自我の自己現前と違い間接的にしか与えられぬ所から消極的に導かれる。レヴィナスによれば、これでは、他者は私がそう認める限りでしか他者ではなく、私のこの世界に依存しない他者性が失われる。絶対的他者性は従って、他者が私の現前野の地平に現象しない所に求めなくてはならない。他者の非ノエマ的「公現」(エピファニー)、それが「素顔」である。
 この概念の源泉をユダヤ教の伝統に探ることは、理解の上で重要である。しかし、哲学的に考えることがこれに優先する。この概念は、現象しない他者の現前(公現)なる哲学上の難問を呼ぶ。現象せずにどうやって他者性が告げられるのか。
 他者は、強者も富者も例外なく弱さ・悲惨の極み(異邦人・孤児・寡婦ー申命記16−11)において私に否応なしに関わって来る。暴力に傷つき、今まさに死に行く者の眼差、これが素顔である。自己の死が現象学の超越論的自我の限界であったように(ハイデガー)、他者の死も現象学の限界をなす。死に行く他者を前にして私は、「汝殺すなかれ」、死に行くままになす(暴力)ことなかれ、との呼び掛けに応えるよう要請される(緊急性)。他者の顔を見たと思う時、素顔は死の方へ一歩先んじており、私の現在はすでに後れをとっている。応えるか否か、私の合理的選択の自由以前に私は他者の呼び掛けに捉えられる(「人質」オタージュ)。素顔はこうして、私の意味づける自由の権力性・暴力性を暴き、私を言葉による平和な、傷つけることなき応答、さらには他者の「身代わり」になるよう誘う(責任の構造)。私の主観性は、存在論的な自由以前に、他者への倫理的な関係によって定義される。「素顔」の概念によってレヴィナス哲学は、逆向きの、そして新たな超越論的哲学として読むことができる。


【同一化】
 同一化とは知識(認識)を作る活動である。ある物を他の物と区別して把握することを識別という。デカルトのいう「明晰判明な知識」はこの識別=同一化なしにはありえない。「判明」は正確に区別され差異化されていることである。だから同一化と差異化は表と裏の関係にある。「私が私であることを認知する」ことを自覚というが、これは自己同一性の反省的確認である。反省は自己と他者との差異の認知である。この意味での反省(差異の意識)なしには自己同一性=自我はない。このように、反省と同一化は近代理性の最も重要な機能あるいは能力となり、自己反省能力あるいは自己同一化能力を持つ人間こそ真の自主的理性人であるという近代の理想が生れた。それは認識論の根本であるばかりでなく、実践的・倫理的行為の根本であった。
 同一化なしには人間は考えることも行動することもできないが、自己反省を重ねれば絶対に疑うことのできない根拠=実体(真の自己同一なるもの)を見つけられのではなく、それは底なしの深淵に直面してそれに蓋をした代理物ではないかとの懐疑が生れた。マルクスとニーチェが開始した同一化一元論に立つ形而上学(同一哲学)批判は、20世紀に入って盛んになる。古代から近代にいたる様々の形而上学的思想は根拠を求め、根拠による同一化(基礎付け)を行ってきたが、この同一化は異質性を排除して一切の事物を同一性の地平の中に均質化する。ところが、思考とは元来同一化しえざる何ものかとの格闘であり、同一化を拒む頑固な事実(非同一なるもの)とのとぎれることのない対話であるはずである。同一哲学の同一化は非同一なものとの対話を中途であきらめ、仮設的な根拠を設定して体系づくりに走った。閉じた世界の構築に安住し、その外部を無視するとき、どんな厳密な思考もイデオロギーに転化する。同一化一元論が社会制度に浸透するとき社会化した形而上学が生れる。社会の諸制度は異質物を排除し、非同一的性格を持つ個人の異質性をすら削りとって特定の世界像と行動パターンにはめこむ。社会内での同一化は、権力の全体化作用ともいえよう。権力の支配とは権力に服従するイデオロギー的主体の産出である。政治権力の同一化構造と伝統的な形而上学的同一化原理とは根本的にはひとつである。同一化理性批判は権力的同一化=全体化批判に通ずる。20世紀の形而上学批判は、もうひとつの新しい形而上学をつくる運動ではなくて、思考と実践の両面で張り巡らされた同一化思考と同一化的支配の解体であり、同一化を「善」とするイデオロギー的虚偽の解体である。同一化の内在的吟味は非同一的なものの重要性を浮かび上がらせたが、まさにこの非同一性(同一化的限定を免れる無限)の思考こそ現代哲学思想の駆動力になっている。


【形而上学批判】
 ハイデガーは、プラトンからヘーゲルにいたる西洋形而上学の根本体制を存在観の根底にまで遡ってあばき出した。形而上学の存在観は、物が立つ、物を立たせる、という「仕立て」の構造をもっている。ギリシア=ヨ−ロッパ人は、「在る」ことを「ますっすぐにー立つ」と了解する。これを垂直存在観という。事物が直立して存在するためには、直立させる「基礎」または「土台」が不可欠である。垂直存在観は、必ず、基礎としての根拠、実体、同一性を求める。垂直存在観に立つ形而上学は、したがって根拠哲学あるいは同一哲学である。知識の確実性、論理の直線性、倫理的実践の垂直性、これらはすべて垂直存在観からの帰結である。
 形而上学はすべての存在者を唯一の根拠=根源=原理=実体から評価し、垂直体系の内部に位置づける。これを同一化と呼ぶ。同一化は見かけの上で差異を認めつつも、実際には差異を、より正しくは、異質性を消去する。同一化は同質化である。個物の独自性、異質性を奪うことは、個物の自立性と自由を奪うことである。アドルノは同一律に基づく形而上学的思考が権力志向的であることを解明した。形而上学的思考は内部に必然的に権力的支配を含む。外的自然の支配(技術的・生産的行為)が反転して内的自然を支配する構図を形而上学は自明の前提とする。この思考類型が制度に浸透するとき、自然の荒廃、精神の荒廃をひきおす。20世紀のナチズム、ファシズム、スターリニズムは「社会化」した形而上学の政治的現れである。
 形而上学批判の課題は、第一に古代から近現代に至る西洋形而上学の根本的前提をくまなく調査し、徹底的な再審に付すこと、第二に、哲学プロパーを超えて拡大するこの思考様式の展開を追及すること、である。二つの課題は、相互に内的に結びついている。哲学固有の分野の中に社会哲学的視点を導入しなくてはならず、社会的諸制度(政治、経済、イデオロギー装置)の分析の中に哲学的分析用具を導入しなくてはならない。このような形で、一般的に、理性と権力の内在的共犯関係を文化の隅々にまで追及することこそ、現代形而上学批判である。デリダは「脱構築」をもって形而上学的思考の分析用具を開発し、フーコーは制度(工場、学校、病院、監獄、軍隊)と理性(科学的、哲学的)との不可分の関係を追及した。


【共同性】
 共同性の問題は、かつて(たとえば社会学の成立期に)よく議論されたように、「社会」(ひとびとの共同体)は諸個人の活動の総和に還元できるか、それとも個人の総和を超えた独立の実在性を持つか、といった問題の形をとることはほとんどなくなってきている。共同性は現代ではむしろ、共同性は現代ではむしろ、共同性がそれとの対立のなかで語られてきた互いに分離している自己完結的な存在としての個人、相互的=対照的に関係しあう諸個人といった表象をひとつの擬制として捉えかえし、個的主体の存在にとっては他なるものとの関係こそが第一次的なものであるとする視圏のなかで問題とされる(その意味では、「人間の本質は個々人に内在する抽象物ではなく、その現実性においては社会的諸関係の総和である」というマルクスのテーゼに、現代の協同性論の発想のひとつの原点を見出すことができるだろう)。
 共同性を個人間の相互的な関係、ないしは諸個人を統合する関係として捉える視点は、共同性について語りうる場所への問いを封じ込めている。人と人との関係は、同時にまた、私と他者という架橋も交換も不可能なものの問の関係である。したがって共同性の問題は、埋めようのない裂け目によって隔てられた他者と私との交通がどのような形で生起しているかという問題と、交叉させつつ論じなければならない。
 たとえば現象学的な間主観性論、それは、世界をともに構成している複数の主観性の機能的な共同性を、他なるものの経験の原様態にまで遡って分析するものであるが、そこでは主観性の<自己>統覚と<他者>の開示と対照的な<世界>の構成とが、相互に補完し制約しあう一つの出来事であることが示される。共同性が、<私>の前人称的な基底としてだけでなく、世界構成一般の条件をなすものとして主題化されてくるわけである。このように自他の存在のみならず、世界の構成そのものが共同的=歴史的に媒介されているとすると(これは<物象化>論にも通じる視点である)、共同性の問題は、真理論や認識論、存在論といった哲学の基幹的な問題次元にまさに直角的に組み込まれることになる。また、知や言説が閉じた系をなすのではなくて、つねに歴史的なもの、政治的なものに浸透されていることが明らかになる。現代、世界の現出の事実的なものによる媒介(<伝統>や<生活世界>や<制度>による媒介)や、知と権力の内面的連関が指摘されたり、さらには、知の究極的な基礎づけの可能性や相対主義が知の中核で改めて問題化してきちるのもそのためである。
 しかし、還元も止揚も不可能な自他の差異に定位しつづけるとき、こうした間主観性という問題設定もまた、自他の断絶を複数主体によって共有された存在空間のうちに包み込む「内在主義」を超えていないことが見えてくる。こうした視角から、ブランショ/ナンシーは、自らを閉じえぬ存在が、しかもたがいに相互的=共同的な関係に入りえず、ただ特異なもの、有限なものとしてその差異をさらしあう根源的な<分割(パタージュ)>のうちに、逆説的にも共同性の唯一のあり方が見出されるとしている。


【多様性】
 多様性という言葉は思想や哲学の言葉としては十分に研究されていない。例えば、多様性は、多元性、複数性、多面性といった用語とも親類関係にあり、多くの側面が同時に同じ空間に並存しているといった意味しかもっていないように思われる。ひとつの事柄を複数の角度から眺めたり、あるものが複数の諸要素から成り立っている複合性を強調することだけのことであれば、多様性なる言葉は単なる事象の性格の表示語でしかなく、あえて思想の言葉とする必要はない。しかしながら、現在の文化状況では、まだ曖昧な多様性という言葉に批判的視点を導入してやれば、それは重要な機能を果たすことになる。この点を、一様性/多様性の対立の視座から説明してみよう。
 一様性は一元性ともいう。現実の複雑性はひとつの根本的な原理に還元し、この原理から再び複合的現実を再構成してみせる作業は理論的思考がしばしばとる態度である。最も根源的な真理と思われる原理にすべてを還元する操作は、一元化ないし一様化といえる。古来、際限なく企てれれてきた「真理の探究」なるものはすべて一様化である。体系化という言葉も、唯一の原理に根拠を求めるかぎり、一様化である。どれほど複雑な要素や側面が提示されても、それらが唯一の原理に色づけされ、あるいはその原理の個々的表出であるかぎりは、見かけの上での複雑性や多様性は一様性の外被でしかない。思想の面でこの種の体系的一様化が求められるだけでなく、現実の社会的世界でも一様化が生じている。例えば、近代資本主義体系では、すべての物や人間は商品・貨幣・資本の内に包摂されて、万物が交換価値の表現になってしまう。政治的領域でも、権力の一様化が発展し、あらゆる人間がひとつの権力に自発的であれ強制的であれ服従せしめられる。日常生活においても、大量消費時代に入り、流行現象がたえず反覆されると、消費行動は一様化(画一化)する。経済・政治・思想の領域で一様化が全面的になるの現代の特徴であるとすれば、近代が理想として掲げた個人の自立と独立、自立的人間の相互的連帯の観念は地盤を掘り崩されてしまう。こうした事態への批判として、多様性への要求が立てられる。この場合、多様性は実質的には異質性の概念に近づく。均質化した世界への異議申し立てとして、多様性は批判力をもつことになる。個人の生活が非画一的で異質的な領域を抱え込み、それを生き抜くこと、現実世界が異質的なものを排除せず(一元化せず)、異質なものたちが自律的に協働しあえるように希望すること、これらが多様性の概念にいまやこめれれるようになった。したがって、多様性は、近代思想が高々と掲げつつも実現させることができなかった自律性の思想を再び取り上げて、新しい地平に据え直す働きをもっているといってよい。


【エクリチュール】
 デリダが初期の作品において戦略的に採用した用語。あえて概念と言わないのは、定義による内包・外延の同一性をもたないため。「戦略的」なる形容は、この語(またはマーク)が音声言語(パロール)との対立の中に収まらず、この対立を脱構築することを示すためである。
 デリダは、西洋形而上学の内部を走るリミットの一つを「音声=論理中心主義」に見る。プラトン以来、ヘーゲル、フッサールを経て今日に至るまで西洋哲学は、世界・存在を論理的に理解する(存在論=神学)ことを課題にしてきた。この考え方は、書かれたもの(エクリチュール)に対する言語の、そして音声言語の優位という前提解釈に支えられている。なぜ音声言語が優位を占めるのか。それは、音声が、現われるや否や言われた「内容」「意味」を残し直ちに消え去る透明な媒体であり、論理的・概念的思考の運動を妨げず、歪曲を加えずに表現し、伝達しうる媒体だと考えられてきたからである(父たるロゴスの支配)。
 書かれたもの(エクリチュール)、例えば文字言語は、音声言語(パロール)を裏切らずに写し取る補助手段としてのみ地位を認められる。しかし、この支配への意志自体が一種の否認の身振りであり、エクリチュールがその支配を脱し、それを不可能にする危険を孕んでいることの間接承認となっている。エクリチュールは、差異が織りなすテクストとして残り、表現主体の意図、表現された内容に必ずしもそぐわない多様な解釈を許し、思想の全き自己現前を根本から脅すため、「危険分子」たらざるをえない。
 しかしながら、エクリチュールがパロールや現前の根源性よりも根源的であることを証明することができる。その形式的性格として、あるマークの非本来的な文脈中での、あるいは無意味な反復の可能性、分割可能性、あらゆる意味で死を含む遺言の構造、等を挙げることができる。これらの性格は音声言語も本質的に共有するものであり、またこれらの条件なくしては音声言語も意味も論理も可能ではない。「ノイズ」「情報」はもとより、それに基づく生命・思考・意識に至るまで、エクリチュールに依存しない根源的一者が残したのではない(現<アシル>)エクリチュール、つまり差異の痕跡が織り成すテクストの効果だと考えなくてはならない。パロールはエクリチュールである。従って、両者は対立関係にはない。
 エクリチュールは、起源・同一性・一者・現前を効果として可能にしつつ、その根源的支配を根源的に不可能にする。同一性の透明な全き現前とは、自らの足枷となる差異と、差異に捕らわれているがゆえの遅れ(差延)を跳び越えようとする目的論的な自己肯定にほかならない。西洋形而上学が、概念/比喩、論理/修辞、オリジナル/コピー(ミメーシス)、西洋/東洋、等々、これら対立を作り出し、前項の項の優位を絶えず確認してきたとすれば、エクリチュールの問いのもつ哲学的射程は広大である。対立の転倒が重要なのではない。アルファベット文化に対し表意文字文化なるものを対置するのは稚拙な考えに過ぎない。転倒でも弁証法的止揚でも、不可能な単なる脱出でもない別の問いの立て方が要求されているのである。





荒井公康
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/
http://kimiyasu-arai.at.webry.info/



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