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zoom RSS 随想集(再掲)

<<   作成日時 : 2015/09/03 09:42   >>

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餅は餅屋、松屋は牛丼屋
 貧乏人の私は、牛丼屋で食事を済ませることが多い。豚肉は牛肉よりも、不飽和脂肪酸、ビタミンB群が多く含まれ、栄養価が高い。日本自体が貧乏だった昭和40年代までは、すき焼きでも、牛肉よりも豚肉を使うことが多かった。貧乏人でも栄養には気を付けなければならないので、牛めしよりも豚めしを食べることにしていた。最近、牛丼屋間で値下げ競争が激化して、とうとう松屋の牛めしも240円に値下げされた。豚めしよりも安い値段である。早速私も豚めしから牛めしへ注文を変更した。
 食べてみると、牛丼屋だけあって、汁の味付けは牛肉によく合っていることに気付いた。元々松屋は牛丼屋だ。餅は餅屋である。卵、野菜サラダと味噌汁付きで380円は有り難い。デフレも貧乏人にとっては福音である。
 今晩も牛めしにするしかないか。

十二音技法の特徴
 十二音技法を用いて作成した旋律に和声を付けようとすると、どうしてもドミナント7thコードが当てはまる場合が多くなる。これは十二音技法に基づく旋律が不安定感ないしは緊張感のあるものであることを意味している。通常の調性音楽ならば、ドミナント7thコードを安定なコードに解決させる(偽終止を含む)ことができるのであるが、十二音技法ではこれは不可能なことである。これが十二音技法による音楽を聴きにくい音楽にしている理由である。通常の音楽の基本的な動きである、緊張ー弛緩(ないしは不安定ー安定)の原則を満たさない音楽ができるので、どうしても緊張感や不安感だけが強調され、聞きやすい音楽が作れない。緊張感を解決させればよいのだが、十二音技法の範疇の範囲では原理的に不可能である。
 十二音技法とは人間によるランダムな自動作曲であるとも言えるので、誰にでも作曲ができる特徴がある。ただし、人に愛される作品はできないと考えてよい。このような欠点はあるにしても、人間はランダムな発想が苦手であるので、十二音技法を作曲の訓練に使うことはできると思う。調性音楽でもランダムな発想が創造性の源になっている。
 誰にでもある種の音楽を作れることを示した点で、十二音技法を考案したシェーンベルクの貢献は大きい。しかし、聴きやすい音楽への回帰という意味では、現在のところ、調性音楽に戻る以外にはないのではないかと思う。調性崩壊の代償は大きい。

脳の男女差
 男性の脳の重さが女性の脳の重さよりも重いと知った時、私は思わず「勝った!」と思ったが、イルカや象の例もあるので、脳の重さは決定打ではなさそうだ。右脳と左脳を連絡する脳梁や前交連という部分は、男性より女性のほうが大きいという。つまり、女性は右脳と左脳とで情報を男性よりも上手くやりとりし、脳全体としてのパフォーマンスを向上させ、容量を補っているらしい。分かりやすくするため、極端な式で表すと

    男脳パワー = 右脳パワー + 左脳パワー ー 0.06*(右脳パワー*左脳パワー)

    女脳パワー = 右脳パワー + 左脳パワー + 8956*(右脳パワー*左脳パワー)

くらいになっているようだ。大きく分けて言うと、右脳は感情、左脳は論理を司るので、女性がときとして見せる矛盾と不可解さも上の式で近似的に理解できるかもしれない。
 ノーベル章を受賞した根岸英一さんが、教育でも競争を重視するように提案したのも、女性を牽制してのことではなかろうか。競争に興味を示すのは女性よりも男性に多いから、競争を強調すれば、まだ男性が優位に立てるとの計算があるのではないか。それが証拠に、科学技術関連予算を巡る事業仕分けでも、「世界一じゃなくてはいけないんですか?」とふと本音を漏らした女性議員がいたではないか。いや、男である私自身も、「世界一」派ではなく「オンリーワン」派なので、世界一の連発はあまりよく分からないのだが。つまらないことでも、オンリーワンならば競わずしてナンバーワンだと思うのだが、ちと不精か。一面から見れば、あの仕分けは男性原理と女性原理の対立に見えた。
 女性の社会への進出は目覚しいものがある。その勢いで私のような人間は肩身の狭い思いをしなければならない世の中になった。一般的に言って男性が暮らしにくい世の中になったとは言えるようだ。


      伝えること
私が「私」という言葉を覚えた頃
私はまだ美しい田園風景の残っていた
東京の片隅に住んでいた
その当時の私には
私が生まれる以前から
こんなに美しい世界があったことが不思議に思えた
渾然一体となっていた世界と私が
その時に分離し
私は世界と対峙したのだ
やがて、私は気づいた
遠い昔から
この世界を先人たちが築き、守ってきたのだと
私は感謝した
ありがとう
もう、あの田園風景はもうないけれど
私も次の世代に何か残さないといけない
まだ間に合う
残っている美しい世界を
次の世代に残そう
私たちの先人たちがしてくれたように


人工無能と呼ばれても
 昔、精神科医を真似たDoctorとかElizaという人工無能(人工知能じゃなくて)のプログラムが作られたことがあり、それもかなり巧妙に作られていて、人目を避けてまで、それらのプログラムとの対話に熱中する人もいたという話です。私も計算機に知識を埋め込んで、普通の言葉で質問すると答えるようなプログラムを随分昔に作ったことがあります。知識を入れ替えると観光案内システムなどにもできました。私もこういうことには興味があって、人間よりも話しやすいシステムを作ることは意義があると思います。DoctorもElizaも、相手を理解している訳でもないので、人口無能などと揶揄されましたが、よく考えてみれば、人間だって話し相手をちゃんと理解している訳ではないと思います。これらのプログラムはかなり改良されていて、現在では人間とほとんど区別がつかないそうです。私も挑戦してみたい分野です。悩んでいる人を癒すシステムは魅力的だと思いますし、自然言語処理や人工知能などの現在の技術を使えば、可能ではないかと思います。


外見
 人間にとって、自分の外見がどのようなものであるか客観的に把握しておくのはよいことだと思う。中身で他人を判断しようとする人などいないものだ。実際、外見で判断するしかないのである。相手の中身など知りようがないのである。私は禄でもない印象を与えるようである。例えば、「口も利けない馬鹿」「子供にもなめられるタイプ」「自閉的」などと言われる。しかし、こう言ってくれる人たちとは、細くても長い付き合いになる傾向がある。最初の会社でも、人間は中身だけじゃ駄目だ、と盛んに言われた。
 しかし、どういう訳か、外見をよく見せたいと思うことはない。何故なら、自分の外見を客観的に把握しておけば、相手の嘘が見抜けるからである。お世辞や嘘ばかりの人間とまで無理して付き合いたくないと思う。外見を偽っても長続きしないし疲れるだろう。力を抜き、ありのままにいるのが一番楽である。
 どうも最近は周りに嘘つきが多くなったようであるが、気のせいであろうか。いささか疲れる。


印象に残った言葉

あらゆる経験・享楽・幸と不幸の状態に関して、私は持つ、しかし持ったということもないだろう。(アリスティポス)

現世の生活への必然的な関与に関して、あたかも関与しないかのごとく、関与せよ。(パウルス)

仕事をせよ、しかし仕事の成果を求めるなかれ。(アガヴァット・ギーター)

無為によってなせ。(老子)


バナナとトマト
 久しぶりに外へ出た。気温も平年並みに戻ったようだ。新緑が瑞々しく、五月の風が清清しい。自転車をこぎながら、何を考えるでもなく、外の風や香りや色に触れていた。
 しばらく本ばかり読んでいて疲れてしまった。本に答えが書いてあるわけではない。そもそも何を自分は問うているのかも分からない。疲れるはずだ。
 八百屋さんでバナナとトマトを買い、緑茶を自販機で買い、自宅へ戻って食べた。トマトの味を思い出した気分。mixiを覗いて、大貫妙子の曲を2曲、YouTubeで聴いていたら気持ちが良くなった。
 少し汗をかいたら、疲れがとれたようだが、もう少し休もう。いい季節になった。


室温付近で歌う有機物質
 物質に電場や磁場をかけると、物質固有の応答をする。室温付近で電荷秩序化する分子性物質について電流制御の非線形伝導を測定したところ、260K以下、約100マイクロアンペア付近で、約1kHzの電圧発振が見出された。この発振周波数は、可聴範囲にあり、印加電流と線形の関係があることを利用して、数秒間続く発振を「ちょうちょ」のメロディーに編集した。2010年の正月明けに仙台市で開かれた、新学術領域研究「分子自由度が拓く新物質科学」の第3回領域会議で、この歌う有機物質について報告したところ、「雑音が少なくて澄んだ音がしている」「有機物質らしい音がする!?」と好評であった。

以上は「化学と工業」に掲載された、東京大学物性研究所教授の森初果さんによる解説からの抜粋である。

もしかして、自然界には人知れず歌を歌っている物質があるのかも知れない。


ヤスパースの哲学入門 
 この本を愛読書としてから40年以上になる。最初は何が書いてあるか分からなかった。30代の頃には内容空疎に思えたこともあった。しかしこの本はまるで鏡のように自分の姿を映してくれるようなのだ。
 この本から何らかの知識を得ようとするならば、得られるものは何もないのかも知れない。何故ならこの本は読者を哲学的信仰に導く本だからだと思う。この本を読んで変化するのは私の「知」ではなく、私の「意識」なのである。宗教の本ではないが、神と実存とを巡る点で、信仰に関する本なのである。哲学の本を読んでも良く理解できないことがあるのは、知識が書かれているのではなく、読者を内省に導いて、意識の変革を齎すことを言外に要求しているからだろう。
 私の人生は世俗的な幸福や成功とは無縁のものであった。しかし、この本の表現を借りれば、私も神の手の内にあったと言える。今振り返って見れば、不可思議なことに導かれながら、精神的にはいくつかのささやかな発見があった。音楽の秘密や数学に関することなど、それは他の人に伝えるには難しいものと分かっていても、いつか伝わるものとの希望は持っている。あらゆるものは伝達への欲求を持っているようだ。
 確かに私は世俗的に見れば不幸だろう。しかし、この本は信仰に関する本として、読むたびに私を強く勇気付けてくれる。キリスト教徒が聖書を大切にするように、私もこの本を大切にして、いつもポケットに入れて歩いている。この本は、読むたびに違って見える。いや、実際に変化しているのは自分のほうなのだが、人間とは相手が変化すると錯覚するものらしい。信仰を持つ人間とは、弱弱しく不幸で恵まれないように見えても、実際は強いもののようだ。
 確信はないが、私も信仰を持っているのかも知れない。孤独にあっても、共にいる存在が感じられるのだから。


映画「愛情物語」
 原題は「エディーデューチン物語」である。エディデューチンはピアニストであったが、私は彼の演奏を聴いたことはない。映画の中での演奏はカーメンキャバレロによるものである。

明るい雰囲気と、前半のエディ(タイロンパワー)とマージョリー(キムノヴァク)のカーメンキャバレロのロマンティックなピアノをバックにしたデートシーンは恋愛映画を予感させるのであるが、マージョリーが風を恐れる場面から、やがて、この映画は愛と死と人生の残酷さをテーマにしていることが明らかになってくる。

エディの「人生は残酷なものだ。」という科白はそれをよく表している。

マージョリーという伴侶を獲得したエディはピーターという子供をもうけた直後にマージョリーは死んでしまう。やがてエディは「エディーデューチン・オーケストラ」を率いて成功を収めるが、すぐに余命いくばくもない病魔に冒される。二度の華やかな成功を「死」に奪われてしまうという、そのままではあまりに残酷なストーリーである。

マージョリーを奪われたようで、無意識にピーターを遠ざけていたエディも、ピーターと父親として和解するが、自分の死をピーターに告げるシーンは切ない。この場面でも風が不安をあおるように吹き荒れる。

ピーターの乳母をしていたチキータ(ビクトリアショー)は死期の間近いことを知りながら、エディと結婚することを決意し告白するところは、救いではあっても残酷なシーンである。しかし、美しい。

エディとピーターが自宅でピアノの競演(ショパンのノクターンE♭)をするが、エディに発作が起こり、チキータがショックを受けた表情をするが、突然エディは画面から消え、ピーターが演奏を続け、チキータが穏やかな表情で聞き入る場面で映画は終わる。神話的な終わり方である。

ストーリーは当に悲劇的である。救いは何かとといえば、カーメンキャバレロのロマンティックなピアノ演奏と、マージョリーとチキータの女性としての魅力であろう。女性がいかにも女性らしかった古きよき時代がよく表れている。この二つの要素がこの映画のストーリーの悲劇性をやわらげ、観る者を感動に誘ってくれるのである。

私もこの映画にでてくる「マンハッタン」という曲が好きでよくひとりで弾くのは、この映画の影響である。私にはこの曲が一番ロマンティックに聴こえるからである。

人生は残酷である反面、素晴らしいものにも出会えることを教えてくれる映画である。

古い映画ですが、皆さんにもお勧めします。


グローバル化とデフレ
 グローバル化とは、物価やその他の経済諸指標の世界的規模での平均化を齎すものなのだろう。事実、国際競争の激しい電気製品などの内外価格差は縮小の一途を辿り、パソコンなどの価格は更に下落する傾向がある。これは生産技術の向上によるものではなく、経済のグローバル化に基づく国際間の平均化現象であり、日本ではデフレの一因になっており、その他発展中の新興国ではインフレ要因になる。農産物などの自由化は、農産物価格の下落を齎し、更なるデフレ要因となるだろう。相対的に物価や人件費が高い日本では、グローバル化はデフレ要因にしかならない。パソコンやDVDなどを日本で生産しても無駄に見えるのは、グローバル化した経済での日本ではすぐに価格が下がってしまい、利潤を生まないからだろう。しかもグローバル化の流れには逆らえない。内需に期待しても、物が溢れかえっており、いくら資金を市場に投入しても、需要に繋がらず、デフレのままである。
 グローバル化の流れは熱力学の法則に従っているように思える。エントロピーの増大にしか見えない世界の均質化に秩序と区分を齎すためには、世界規模の仕組みが必要になってきたのだろう。それは可能だろうか。自由化だけでは無理なのではないだろうか。


数学と音楽
  時々、数学者や理系の人が、音楽について文章にしているのを見かけるときがあるが、それらを読んで、正直に言って、音楽を支配している数学は無いのだろうな、という印象を抱くことが多い。和音や音階の構造ならば、数学的に表現できるが、音楽作品となると分析は難しい。数学者というのは、対称性のあるもの、単純で美しい構造を持つもの、きちんと対応のとれるもの、などに興味を持つもののようだ。それに対して音楽は意外と複雑だ。
 私も数学が好きで、最近も結城浩という人が書いた「数学ガール」「数学ガール(フェルマーの最終定理)」「数学ガール(ゲーデルの不完全性定理)」を手に入れた。小説風の読み物であるが、大学の教養学部程度の数学の知識がないと理解できない内容である。登場人物は高校生で、私個人としては、自分が高校生であった時を思い出させてくれて懐かしい気分になる。高校時代に持っていた旺文社の数学の参考書には大学レベルの数学が書かれていて、夢中になって読んだ記憶がある。若い頃に出会った数学や物理学で使われる言葉は、神秘的で謎に包まれている感じがして、とても惹かれるものがあった。大学では化学関係を専攻したが、実験と事実重視の化学は、今でもあまり好きになれないところがある。想像力豊かな世界ではないからだ。豊かな想像力も、実験重視の化学の世界では、現実に道を譲らなくてなならない。想像力を発揮できる、数学、理論物理、音楽などの世界のほうが自分に合っているようだ。脳科学などの本を読んでいても、神経回路の数理モデルなどに関心が行ってしまう。文系の本も意外と好きだ。
 昔はレコード屋さんに行くと、楽譜などのほかに、理論書が置かれていることが多かった。理屈っぽい本には、ジャズ系の教則本が多かった。こういった本も最近は見かけなくなってしまった。そうした本の影響を受けた私としては残念な気がする。音楽も理屈が大事と思う。
 いい歳をして、数学、音楽、物理学とは、私も歳をとれない人間だなとつくづく思ってしまう。三つ子の魂、百までだろうか。


ホットケーキ
 ヤマサキのホットケーキサンド(メープル&マーガリン)(110円)を買ってみた。懐かしい味がした。
 子供の頃、両親は外出すると必ず外食に連れていってくれた。外出して外で食事をしないことはなかった。大抵、ペコちゃんで有名な不二家に行くことが多かった。「あっ、ペコちゃんだ」と言うと、不二家の中に連れていってくれた。私の注文は決まってホットケーキ。ホットケーキ2枚にシロップとバターが付いていた。暖かいホットケーキの上にバターを塗ってシロップをかける。それをナイフで切ってフォークで食べる。懐かしいはずだ。あの当時の味だ。
 小さな子供がナイフとファークを器用に操るので、親戚も面白がった。
 もう、あの頃には戻れないけど、また食べてみたいのが暖かな本物のホットケーキだ。


日々の日課
 今日、ドアを開けると、花のような甘い香りが漂っていた。緑の香りも清清しい。いつも通り、自転車に乗って、川崎方面に出かけた。途中でコンビニによって、菓子パンと緑茶を買った。ゆっくりと自電車を一時間ばかり漕ぐのが日課になった。もう、一年くらいになるだろうか。これも効果があって、最近は疲れにくくなった。軽度の運動は気持ちが良いし、健康にも良い。
 家に戻って、情報処理関係の事典数冊を少しずつ読んだ。これも日課だ。継続は力なりと思っている。次に、ギロックの小曲をMIDIファイルに落とし、コード名を楽譜に書き込んでゆく。作曲技法を盗む。ギロックの曲はジャズの要素が多いので、少なくとも私には分かりやすい。半音下降の旋律や7度、9度、2度の響きがジャズっぽく、綺麗な曲が多い。ギロックのことは最近知った。
 ラベル、ドビュッシー、ガーシュイン、ルロイアンダーソンなどにも興味がある。楽譜を分析するつもりだ。ジャズのスタンダードナンバー集もコード名が記されているので参考になる。
 その後は好きな本を読むことにしている。「数学ガール」第4弾「乱択アルゴリズム」を最近買ってしまった。「確率とコンピュータの深くて不思議な関係とは?」とある。疲れそうだが勉強になりそう。この本、ソフトバンクの出版である。Lispの修行も欠かさない。
 高度なことをしているわけではないが、適度な作業は精神衛生上も好ましいのだろう。最近は調子が良い。


お弁当の重み
東北地方太平洋沖地震により被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。(2011/03/11)

被災地の皆さまに比べれば比較になりませんが、首都圏に住む私も、いろいろと不安を感じました。いつも、コンビニのお世話になっているのですが、地震から2−3日経った頃から、コンビニから食料品が消え、一人暮らしをしている私は少なからず不安を感じました。恥ずかしながら、私はいろいろな店を回り、レトルト食品、カップ麺などを買い占めてしまいました。と言っても2週間分ほどでしたが。

昔、石油ショックの折に、トイレットペーパーの買いあさりがあって以来、日本の国で、商店から品物が消えるという経験は40年以上していません。正直に言って、コンビニやスーパーで空になった棚を見るのはショックでした。おそらく、初めての経験の人たちが圧倒的に多かったと思います。多くの人たちが不安感から買占めに走ったのはある意味、仕方がなかったと思います。なにしろ、多くの人たちにとって初めての経験なのですから。

日頃、コンビニで何気なく買っているお弁当やパンも、多くの人たちのお陰を負っていることを痛感しました。店員さん、物流に携わる人、お弁当を作る工場の人たち、食材を提供する人たち、etc。多くの人たちのお陰で食料品が買えるのです。不安を顧客に与えないような配慮も感じました。

こう考えると、お弁当の重みというか値段は、本当はもっと重いものに思えました。

本日(2011/03/19)、久しぶりに自転車で街に出ましたが、大分落ち着いてきた感じがします。ガソリンスタンドも営業していましたし、コンビニの品揃えも回復してきています。

商品が消えるということは本当に怖いことで、不安を感じさせるものだと思いました。被災地の皆さまの不安は、察するに余りあるものと思いました。早く、全てが元に戻ることを願っています。何事もないことの有り難さを改めて強く感じさせられた一週間でした。


現在・過去・未来
 「愚人は過去を語り、賢人は現在を語り、狂人は未来を語る」と誰かが言ったそうである。しかし、歴史は繰り返す。三歩歩んで事を忘るる、では鶏と同じである。現実を言えば、過去(記憶)を参照し、未来を期待、予測をしながら、現在を行為・認識すると言うのが、人間の在り方だろう。過去を語る人は賢く、用心深いというのが真相だろう。現在・過去・未来が実体的に存在するのではなく、この三者と意識が密接に絡みあって、人間の認識に影響を及ぼすというのが実相だろう。
 狂気とはこの三者を実体視し、一つしか認めないことではないか。過去・未来を無視して現在にだけ生きることは、宗教的境地とは言えるだろうが、日常生活ではこのような境地を離れる必要がある。さもなければ、生活に支障を来たすだろう。
 人間を行動主義的な刺激・反応図式で捉えないためにも、このような考え方が必要である。人間が他の動物と違う点である。過去から学び、過去の新たな意味を常々見出して行き、現在を賢く生きることこそ、よりよい未来の条件である。


アキレスと亀の関係妄想
 ゼノンが考えだした「アキレスと亀のパラドックス」の話は中学生でも知っていることである。この問題は無限級数や対角線論法を持ち出して説明されることが多い。
 現実にはアキレスは亀に追いつけるが、ゼノンの説明ではアキレスは亀に追いつけないという矛盾が生じているのだが、数学ではなく、物理的に考えてみると、アキレスと亀の運動は互いに無関係で独立であるので、アキレスは亀を追い抜くというのが現実である。では、パラドックスはどうして生じたのであろうか。これはゼノンがアキレスと亀の運動という、現実には関係ないもの同士を、無理に(数学的に)関係付けて論じているからに過ぎない。関係ないものを関係付けて論じることによって矛盾が生じているに過ぎない。パラドックスでもなんでもない。
 関係付けるという思考形式は現実によく見られるものである。この時に、関係がある場合もあるが、現実には関係ない場合もある。後者の場合は関係妄想となり、矛盾を生む。自然科学であれば実験で確かめることもできようが、日常の人間の心理を扱う場合には簡単には調べることはできない。
 関係付けるという思考形式に対しては、よくよく注意すべきである。さもなくば怖いことにもなりそうである。我々は、ものごと同士が関係あるかどうか知り得ないことが多いのではないか。矛盾にも気付かないのではないか。短絡は禁物である。
 この問題は人工知能における記号接地問題とも関係するようだ。



 鈴木大拙の「禅学入門」を流し読みしていたが、禅が人間を論理、言葉(概念)から自由にするものだとしても、その非論理性を支えているものは、日常言語であり、通常の論理であるのではないかという思いを強くした。そうでなければ、そもそも、日常のコミュニケーションも不可能だろう。
 禅とは青い鳥を探している人間に、幸福や真実が遠いところにあるのではなく、足元の日常の生活にあることを教えるものだ。日常の経験や生活を丁寧に味合うことを教えるものだ。公案は難しいので、深遠な理論があるのだろうと錯覚するが、そのようなものはないようだ。
 母は早食いの私に、よく味わって食べるように諭したものだ。これも禅である。父は時折、私に禅問答もどきの問いを発し、私を黙らせた。これも禅である。
 曇天の梅雨の日に、紫陽花の花は鮮やかに咲く。しかし、紫陽花と気付く前に、その花は何であったか。現象学との関係は如何。





荒井公康
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びっくりです!あなた様は、とてつもなく多趣味で教養のおありのある方でいらっしゃいますね。おバカな私には難しくてあまりわからないのですが、すばらしいと思っております。これからも無理せず、お体に気をつけてがんばってくださいね。馬鹿な私から一言言わせていただきたいのです、あきらめないでくださいね何事も・・・。では、また!!
タムラブ
2016/01/23 05:01

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