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zoom RSS 随想集2(再掲)

<<   作成日時 : 2015/09/03 09:46   >>

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ライプニッツの夢と音楽
 ライプニッツはホッブスの「思考するとは計算することである」というテーゼを発展させ、「思考のアルファベット」たる少数の基礎概念から、計算という記号操作によって全ての真理を演繹的に構築しようという壮大な構想を抱いていた。つまり、それは、記号体系が特に上手く作られたならば、記号間の関係や秩序が、事物間の関係や秩序に対応するという発想に基づいており、記号の側の操作だけで事物や事象の知識に到達しようというものだった。(ライプニッツの普遍記号学)
 私は人工知能の対象として音楽を選んでいるので、遊びと思われても仕方がないが、音楽という分野は古典的な人工知能の応用分野だと思う。ライプニッツにおける自動機械、計算主義、記号主義、形式主義の考え方は人工知能に大きな影響を与えた。ライプニッツの普遍記号学を音楽に当てはめれば、私がやっているような、音楽関連システムになるのは自明である。
 ライプニッツには高校の微積分でお世話になったが、音楽でも、基本的な考え方ではお世話になっているようだ。
 音楽は遊びでできるものではない。人工知能や普遍記号学と密接に関係していることを理解して頂けたら幸いである。


("CM7" ion)の意味について
 単なるデータと知識とはどう違うのだろうか。何故、私は自分の音楽関連システムを知識システムと呼ぶのか。音楽を作る場合、自動作曲であろうと自分で作曲する場合であろうと、知識が必要である。例えば、コードネーム CM7 が表す構成音などは知識と言うよりもデータに近く、いくらこのようなデータを集めても、音楽を作ることはできない。知識とはデータを整理して、データ同士の関係を定めたものである。
 ("CM7" ion)という表記は、一般には C ionian と表記されることが多い。この表記から CM7がハ長調のトニックであり、適用されるコードスケールは C(ド)から始まる ionian (つまり、ドレミファソラシド)であることを計算機に理解させることができる。注意すべきことは、人間が理解するのではなく、計算機が理解するということである。人間であれば、C ionian と表記されていれば、使われるコードは CM7 C69 C6 C などであることは、慣れれば分かることなのであるが、これを計算機に判断させる手続きは複雑になるので、私は("CM7" ion)という表記を用いている。("CM7" ion)という表記は知識を表しているのである。また、CM7の場合、可能なコードとコードスケールの組み合わせは("CM7" ion) ("CM7" lyd)の2通りしかないことも知られている。("CM7" dor)とか("CM7" alt)などはあり得ない。また、("CM" ion)と表記されていれば、USTは G Am Emであることも計算機に理解させることができる。またテンションノートがレとラであることも表現できる。
 例えば、5小節に亘る("Em7" phr)("A7" hmp5)("Dm7" dor) ("G7" alt)("CM7" ion)はより具体的に次のような表記と考えてもよいが、簡潔でない。
  (コード:Em7(ミソシレ)、コードスケール:phr(ミファソラシドレミ))
  (コード:A7(ラ#ドミソ)、コードスケール:hmp5(ラ♭シ#ドレミファソラ))
  (コード:Dm7(レファラド)、コードスケール:dor(レミファソラシドレ))
  (コード:G7(ソシレファ)、コードスケール:alt(ソ♭ラ♭シシ♭レ♭ミファソ))
  (コード:CM7(ドミソシ)、コードスケール:ion(ドレミファソラシド))
このような表記から、人間の持つ暗黙知ないしヒューリスティックスによって、メロディーを生成させることが可能である。このような組み合わせも(音楽)知識と考えてよく、様々な歌曲(主にジャズ)の構造がこのような組み合わせで表現されることが知られている。
 このように、私の音楽関連システムは自然言語ではなく、記号によって知識表現を行っているので、分かりにくいのかも知れないが、一種のエキスパートシステムになっているのである。音楽知識をコード名とコードスケール名の組み合わせで整理するのにはかなりの時間を要した。


囲碁と酒
 子供の頃、父はよく将棋の相手をしてくれた。決まって、棒銀で攻めてきて、私は防戦一方で、いくらやっても適わなかった。囲碁も教えてくれたが、私にはよく分からなかった。就職し立ての頃、私の給料はほとんど酒代に消えた。こんな私の親とは信じられないのであるが、父は酒一滴も飲めない体質であった。囲碁と酒に関しては父と私はすれ違いであった。若い頃、囲碁の本を買って帰った私に、教えてやるからと言っていたが、私のほうは乗り気になれなかった。酒はともかく、私も囲碁を本気でやっていたなら、父の相手をできたのだろうなと思うと残念である。また父が酒を飲めたら、親子関係も随分違っていたと思う。
 最近まで父は電話をよくくれた。決まって、俺は大丈夫だ、お前の方はどうだ、と言う内容だった。だから、私は父が元気だと思っていた。先日は夜の11時半に電話をくれた。入院先の病院からだった。それが最後のメッセージになりそうなのだ。今日、病院に行ったところ、治療法がもうないのだそうだ。安定剤と薬で父はほとんど寝ているばかりになってしまった。一昨日行った時には起きていたが、機嫌悪そうだった。夜の11時半とはその夜のことだった。私がまた行くからと言ったら、安心したように電話を切った。本当にその時の声が最後に聞く声になってしまったようなのだ。
 最後に私の一人住まいの家に来た時は、父はなんとトイレの掃除をして帰った。囲碁以外に何も関心のない父であったが、日常では極めて几帳面で、だらしのない私を叱った。偉そうなことを言う前に、当たり前のことができる人間になれ、というメッセージのようだった。
 あとどれだけ生きてくれるのかわからない。目を覚ましてくれるかもわからない。しかし、これからしばらく、病院通いをするつもりだ。
 父が酒を飲めたら、そして私も囲碁の相手ができていたなら、と思うと残念でならない。父と酒を酌み交わしたかった。
 子供が頑張るのは親のためだ。それが親孝行だ。私は勉強でも仕事でも頑張ってきたとは到底言えない親不孝ものだ。本当に後悔先に立たずとなってしまった。


信仰ということ
エレミヤが、自分が永い生涯をかけて築いたものがすべて滅び去ったのを見たとき、彼の国と民が失われたとき、エジプトにおいて彼の民として最後まで残ったものたちさえも、もはやエホヴァを信じなくなって、イシスに捧げたとき、そして彼の弟子バルクが絶望のあまり『我は嘆きて疲れ、安きを得ず』と語ったとき、彼は『見よ、われ我が建てしところのものをこぼち、わが植えしところのものを抜かん、汝おのれのために大いなることを求むるか、これを求むるなかれ』と答えたのであります。(ヤスパースの哲学入門より)
 いっさいのものは神によって無から創造されたものであって、いっさいは神の手の中に存する。いっさいのものが失われたときただ一つのことがあとに残る。それは神が存在する、ということである。この世界において一個の生活が、神の手に導かれて最善の努力を試み、しかもなお挫折したとしても、神が存在するという一つの驚くべき事実があとにに残る。エレミヤの言葉はまことに厳しい言葉である。それはもはやこの世における歴史的な活動意欲と結びついたものではない。しかしこのような活動意欲は私たちの生ける証として先行し、そして最後に徹底的な挫折においてはじめてこのような意味を可能ならしめる。エレミヤの言葉は率直で、汲み尽くすことのできない真理を含んでいる。それはこの言葉が言い表される内容と、この世に対する執着を全て放棄しているなればこそである。
 世の中には、神も仏もあったものか、というようなことがたびたび起きるが、業や因縁を持ち出す仏教などと異なり、全て神の思し召しと見なし、それを受け入れるのが、キリスト教の特徴のようである。業や因縁といった概念も、人間の小賢しい浅知恵に過ぎないのではないか。
 最近は何故か、キリスト教に惹かれるようになった。


アップルとタッチパネル
 アップルのスティーヴゥ・ジョブ氏が亡くなったが、アップルと言えば、1980年代に既に、将来、キーボードとマウスに代わるインターフェースに置き換えると公表していた。当時の私は音声認識装置でも開発するのかと思っていたが、タッチパネルに落ち着いたようだ。当時の上司もヒューマン・インターフェースをやらなければならないと言っていたが、笛吹けど踊らずであった。
 今後はタッチパネルに代わるヒューマン・インターフェースが登場するのか、それがどんなものになるのか、興味深い。


哲学とは何か
哲学を哲学たらしめているのは、その考察対象にあるのではなく、考察という行為そのものにあると思います。また、哲学というものは「勉強の対象」になるものではなく、哲学せざるを得ない状況に追い込まれることによって生ずる人間の考察という行為にあると思います。大塚さんの挙げた、ソクラテスの「汝自身を知れ」、デカルトの「コギト」、カントの「いかにしてアプリオリな総合判断は可能か」、といったものは全て、客観的成果ではなく、彼らを哲学という「行為」に駆り立てたきっかけであったと思います。

私は大学では化学を専攻し、最初の会社で送変電システムの仕事をし、次の会社で、人工知能の研究をし、個人的に音楽の研究などをしてきました。私は哲学の研究をしてきたわけではありませんが、個別科学の分野でも、行き詰ると、誰かに頼らずに考えざるを得ない状況に陥ります。その考察結果は個別科学分野に属することになるにしても、考察という行為は、あくまで哲学的なものになると思います。従って、哲学を「やむを得ぬ状況から、誰にも頼らずに自分で考えること」と個人的には考えていますが、このような行為は子供を含む万人に見られる行為と思います。

従って、哲学するという行為は、万人に開かれたものですが、その結果が面白いかつまらないかによって、他者によって評価されるに過ぎないと思います。哲学せざるを得ない状況に追い込まれないような人はむしろ珍しいと思います。

哲学とは知識ではなく、あくまで行為であると考えます。


恋とは何でしょう
 これはジャズのスタンダード・ナンバー「What is this thing called love?」の日本語名である。これを英日機械翻訳で試してみると、
  「愛と呼ばれるこのことは、何ですか」
と出てくる。逆に「恋とは何でしょう?」を日英機械翻訳してみると
  「What is love?」
と出てくる。
 
 次に、英語をいろいろ意訳して試してみた。
「この恋ってやつは何でしょう」
   In this love, what is the guy?
「この恋と呼ばれるものは何でしょう」
   What is the one that is called this love?
「恋と呼ばれるものは何でしょう」
   What is the one that is called love?
「この今の恋心は何なのだろう」
   What is this current love?
「愛と呼ばれるこのことは、何ですか」
   What is this that is called love?

いやはや、まだまだ機械翻訳システムは実用レベルからは程遠いようだ。


計算
 もう20年も前に出版された、数学セミナー増刊(1990)「先端技術と数理科学の対話」(森正武、藤井宏編)を読み返してみた。フォン・ノイマンは、非線形問題、乱流、量子力学、多体系を計算機を使って解くことを夢見ていたそうである。「科学者は、基礎方程式がわかっている現象に対してさえも、そのふるまいを観察するために高価で面倒な実験を繰り返している」と言ったそうである。全体としては、スーパーコンピューターを用いたシミュレーションについての話である。高温超伝導、生体科学、ニューロコンピューティング、デバイスシュミレーション、流体力学などの話題があった。高温超伝導に関してはシミュレーション自体不可能なようである。全体として物理の基本方程式から複雑な現象を再現するのには非常に大きな困難を伴うようである。
 先端技術ではないけれども、私も大型変圧器の乾燥工程のシミュレーションをしたことがある。熱伝導と水蒸気拡散を組み合わせて、差分法によって計算したが、いろいな係数が分からず、現実の現象を再現させることはできなかった。
 1950年代にHodgkinとHuxleyはヤリイカの巨大軸索を用いた生理学的実験による神経の振る舞いを非線形微分方程式モデルで説明しノーベル賞を受賞している。認知科学や人工知能では人間の脳の振る舞いに関心があるので、脳の神経回路網も、このような神経の振る舞いから説明しようとする。脳の神経回路網の振る舞いを一つ一つの神経細胞の振る舞いに帰することは不可能なようで、考え付かれたのがよく知られている、ニューラルネットワークである。しかし、人工のニューラルネットワークと脳の神経回路網と間には飛躍がある。さらに人工知能での記号計算とニューラルネットワークとの間には飛躍がある。これらの飛躍は計算機の計算量爆発を避けるために行われると見ることができる。実際の人間の脳では、このような飛躍はなく、個々の神経細胞の振る舞いから記号処理まで連続につながっているようである。これは驚異である。初期の人工知能の成功は人間の脳の記号処理という表層だけを利用したことによるが、記号処理でも計算量の爆発が起こりうることがわかっている。物質と生命の間には埋められないギャップがあるが、現実には生物は存在する。これも驚異である。認知科学や人工知能はこれらの飛躍やギャップを埋められるだろうか。考えただけで疲れる思いである。
 これは想像であるが、人間の脳というのは、一種のシミュレーターで、対象を計算によって再構成していると見ることができる。これは哲学的には異論がないと思う。認知科学や人工知能の細かい議論はよく分からないが、大雑把な捉え方はこれでよいと思う。ただし、人間に意識できるのは、言語という記号の側面だけのようである。言語がすべてであるという主張ももっともである。化学、生化学、生物学は言語学に近いと思うことがある。数学や物理も記号学であろう。言語や記号として表現されて初めて社会的なものになる。文系と理系の差はない。
 人間の脳というシミュレーターは素晴らしいもので、スーパーコンピューターでシミュレーションできないことも実現しているのが現実だろう。
 なんだかよく分からなくなってきたが、また考えてみよう。今日はこのへんで。


ストア学派
 ストア学派のエピクテートスは、『哲学の起源は、自己の弱さと無力を認めることである』と言っている。どうしたら私の無力は救われるか、という問いに対しては彼は次のように答えているー私の力に及ばないことはすべて、私にとって無関係なこととして、その必然性においてながめる。それに反して私に関係のある事柄、すなわち私の表彰の仕方や内容は、これを思惟にとって明晰にし、自由にする、と。
 少なくとも、今の私にとって関係のあると思われる事柄は、音楽(作編曲や演奏)、ソフト(LispやJava)、数学や物理学、読書などである。これらを明晰にし、自由にすることは難しいが、ストア学派の忠告に従って、努力していきたいと思っている。
 本当に、私はつくづくストイックな生活をしているものだと思う。


卵とコレステロールの人体実験
 卵を多く食べるとコレステロールが増えると言われているが、私の場合、一日に2〜3個の卵を食べていても、コレステロールが増えるということはない。これは定期的に血液検査をしているので分かることなのであるが。卵に含まれるコレステロールは、人間の体内のコレステロールと異なるので、多く食べてもコレステロールが増える心配はしなくても良いようだ。
 卵は安価な完全栄養食品である。必須アミノ酸も全て含まれている。貧乏人にとってこれ程有り難い食べ物はない。皆さんもコレステロールを心配しないで卵を食べましょう。これは貧乏人にとって福音と言えよう。自分自身で実験したので、私自身は安心して卵を毎日沢山食べるつもりだ。但し、個人差があるかどうかは分からない。皆さんも自分で実験してみて下さい。宜しければ、結果を教えて下さい。
 卵ファンより。


ロールシャッハのひげ
 最初の会社に入社したての頃、私は口ひげを蓄えたことがある。当時(1980年代)としては余程目立ったらしく、周りの人からいろいろなことを言われた。

部長「皆が怖がっている。剃りなさい。いつ反省するのかと思っていた。」
課長「自信があるなら、生やしていなさい。」
先輩「荒井さん、ひげが似合うな」
女性「同期でひとりだけ、お髭。素敵。」
同期「カッコいい。」
馬鹿「卑猥だ。」
馬鹿「ヒットラーみたいだ。」
同僚「気分の問題だろうな。気が変われば剃るさ。」
工場医「なんでひげを生やしているのか知りたいの。」

こんなものだったろうか。本当に人間とは他人に対しては何を言い出すやら分かったものではないが、それらを分析する価値はあるかも知れない。あなたなら、上の反応をどう分析します?

まぁ、目立つことはしないほうがよさそうだとは言えそうだが、ひげが濃い私は、生やしたり、剃ったりして楽しんでいるのが実情だ。

真相を言えば、ビル・エヴァンスのアルバムに口ひげを蓄えた彼の写真が載っていて、カッコよいと思い、いつか口ひげを生やしたいと思っていました。


雪と靴
 今日は事情があって雪の中を歩き回らなければならなかった。2年ほど前に1000円で買った靴はもうよれよれで、防水加工も施されていないので、雪水が浸み込み、流石に足が冷たくなった。仕方なく、途中で靴を買うことにした。奮発して7800円の靴を買った。これは流石に1000円の靴に比べると履き心地も良いし、歩きやすい。
 しばらくして公園の近くまで来た。晴れの日ならば冬の陽の下で中高年の人たちが日向ぼっこをしているのであるが、雪の降る今日は、大人は見当たらず、子供たちが大勢遊んでいた。雪への子供たちの想いは、昔も今も変わらないようだ。子供たちは嬉しそうに、この寒い中を遊んでいた。
 1000円の靴も随分くたびれてしまったが、もう少し偶には履けそうなので、ビニール袋に入れて家に持ち帰った。昔から何故か使い慣れた物を捨てると寂しい想いがするのである。家の靴箱もまた少し賑やかになった。次はサンダルでも買おうかな。


ピアノと将棋
 ここ数日久しぶりにピアノの練習をしている。しばらく弾いていなかったので昨日までは指が動かなかったが、今日は暖かいせいか、指がよく動く。
 最初にスケールの練習をする。頭では忘れているスケールも体が覚えているようだ。久しぶりなのにスムーズに弾ける。phrygian,Hmp5,dorian,alterdのスケールを全調で練習する。この後、自作の練習曲を弾く。この間、訳30分。その後、指ならしに自作曲を2曲弾く。
 大分指が動くようなので、「星に願いを」を編曲しながら即興で弾いてみた。割といい感じの編曲ができた。次に「Day by Day」「ブルーレディに赤いバラ」「All of me」「My One And Only Love」を弾いた。久しぶりなのでスムーズには行かないところもあるが、なんとかこなした。
 最近は少し刺激のある生活をしているので、やる気がでてきた。今日も良いことがあった。ご馳走してもらった。曲も一曲できたので、後日Midiファイルにするつもりである。
 また毎日ピアノの練習や作編曲をしようと思う。関係ないが将棋の勉強も始めた。インターネットと実戦で勉強中である。私は勝負事には向いていないが、頭を鍛えるのも大切と思う。将棋は結構頭を使う。音楽にもいい影響があるかもしれない。
 新しい生活とピアノと将棋と、私の生活にも張りがでてきた。まさしく春だ。


父の訪問 
 本日11月28日に父が私の家へ来てくれた。母の月命日である。
 冬用の洋服を持ってきてくれた。父とは事情があって同居していない。病弱の父のことが心配であるが、本人の事情があるので仕方がない。父はもう囲碁をやらないようである。
 父ももうすぐ80歳である。元気を取り戻して長生きして欲しい。とぼとぼ自転車で去っていく父を見て、私は寂しく、悲しくなった。


他人の言っているこそ正しい
mixiで私のマイミクの一人の信条に驚いた経験がある。その人の言うことには、

「私の言うことが間違っているのであり、他人の言うことは無条件かつ絶対的に正しい。」

のだそうである。この命題の真偽はともかく、私自身の読書に対する姿勢は、この命題に沿っている。そうでなければ、読書などできないし、する意味もない。

この私という主観に汚されない純粋な他者への歓待とも言うべきこの立場は興味深いのではないか。


人間何のために生きるのか? 
 本を読んでばかりいる私に、「そんなに本を読んで勉強しても仕方ないと思うよ。」と忠告(?)してくれる人がいた。こういう質問を突き詰めると、「人間は何のために生きるのか?」という疑問に行きつくのだが、私の意見では、いかなる人間もこの質問に答える義務も責任もないと思う。神によるにせよ、因縁によるにせよ、私の存在に関しては、私には責任がないからである。従って、真剣に考える質問ではないと思う。
 なぜ本ばかり読んでいるかに関しては、自分としては、面白いからとしか言いようがない。読書というものは、読書するほど面白さが増すものだとしか、個人的には言い様がない。身近にゲーム中毒で、ゲームに熱中して生活も乱れてしまっている青年がいるが、これはマズイと思いながらも、適切な助言はできないし、言う権利もないと思うのも本音である。馬鹿げたことと他人には思われることでも、本人が面白ければ、犯罪でもない限り、とやかく言えないはずである。まことに幸福を追求する権利として愚行権と呼ばれる権利が憲法で保障されているのは深いことだと思う。読書とゲームとどちらが価値があるかという問題にも決着はつかないはずである。私としては、何もしないよりも、何かをまずやってみて、そのことの面白さを発見することには意義があるように思われる。それが馬鹿げたことであろうとも意義があると思われる。時にはやることのレパートリーを増やすことが、現在はまり込んでしまっている中毒症状から逃れる手立てにはなるとは思う。
 「人間は何のために生きるのか?」という質問に対しては、「とりあえず生きてみるべし。」というのが私の答えである。死を問われた孔子が、「生を知らない私がどうして死を語れよう。」と答えた真意もそこにあると思う。とりあえず生きてみれば、「生きる意味」以外の、面白い答えが見つかるはずである。そして、その答えは各人各様なのだろう。


五月の緑と赤いカーディガン 
 今年(2012年)の五月連休の最終日(5月6日)に、いつも通り、午前8時きっかりに、川崎方面に向かって自転車を漕いできた。五月の風が清清しく、上着を着ていても、気持ちが良かった。緑の植物が発する香りも清清しく気持ちが良い。
 そうだ、これは40年ほど前の、あの日と同じような感じの日だ。大学の教養学部のキャンパスはウッソウとした緑に覆われていた。大学入学直後の私は、いつも通り、学内の掲示板を覘きに行った。そこに現れた赤いカーディガンを着た美少女に出会ってハッとした思い出がある。もう、どんな顔だったかも覚えていないのだが、そのちょっと切ない思いは今でも心に残っている。長い間、彼女の面影をキャンパスに探すような日々が続き、勉学にも上の空であった。結局その少女とは二度と巡りあうことはなかったが、それが祟ってか、最低の成績で、誰でも進学できた工業化学科へ進学することになってしまった。物理学者志望の動機も恋には勝てなかった。
 そんな恋心を今まで何度経験したことだろう。結局、どの恋心も実ることはなかった。悲劇を繰り返すような人生であったが、精神的には、多くの経験を豊かにした思いがする。
 工業化学科を出ても、結局、専門知識を使う機会はなく、専門外の分野を渉り歩いてきたため、世俗的幸福を求める余裕など無かったが、勉強する習慣だけは身についたようだ。これは幸か不幸か分からない。あの赤いカーディガンの美少女と目出度く再び巡りあっていたら、意外と平凡な人生で終わっていたかもしれない。それも幸であったか不幸であったか分からない。天は二物を与えないものだ。
 あれから、ほぼ40年。歳月人を待たずで、随分歳をとってしまったが、生活自体は平凡な日々を相変わらず続けている。私のライフワークも人工知能と音楽に落ち着いたようだが、あまり進展はないのは残念だ。いや、ある程度成果はあったのかも知れない。人間、今の自分に無いものばかり目が向き、ささやかでも、自分の現在持っているものや成果には無頓着なものだ。ささやかな思い出や成果も大切にしよう。これからも小さな積み重ねを大切にして、残りの人生を丁寧に生きよう。今日は本当に爽やかな日だ。


コンピュータ言語と音楽
 かつて勤めていた頃、コンピュータの言語はどれも同じだとか、プログラマは言語を選べない、とか言われたことがある。しかし、そういうことを言う人は、プログラミングをあまりする必要のない、怠け者か恵まれた人だと思う。幸か不幸か、私は人工知能の仕事に従事し、Lispという言語を使う機会に恵まれた。それ以前には、アセンブラ、Fortran、BASIC,C言語しか知らなかった私は、Lispを知って、その威力に驚いた経験がある。
 話は飛ぶが、音楽という分野は記号処理を主体としており、記号処理を得意とするLispと大変相性が良い分野である。プログラマと音楽家もどきを両立させるのは、普通に考えれば困難なことだが、Lispはそれを可能にしてくれる。Javaなども勉強しているが、Javaで自動作曲システムを作る気にはなれない。他の言語でも同様である。というか、Lisp以外では、どうすれば良いか分からないというのが正直なところである。逆にLispで数値計算をする気にはなれない。
 やはり、コンピュータ言語にはそれぞれ得手不得手があり、対象領域ごとに使い分ける必要がある。これは現在では当然の意見だろう。当時のコンピュータ言語はどれでも同じというのは極端な話であったと思う。


生活と意識
 マルクスは生活が意識を規定するというようなことを言ったが、それはどうかなと思うことがある。子供の頃は、漠然と将来は、学者、お坊さん、作曲家などになりたいと思っていた。こういった漠然とした憧れみたいなものが、私の生活を規定してきたように思える。それは私のHPや本棚によく現れている。
 幸か不幸か、両親は放任主義で、私にあまり指示することがなかった。大学でもあまり指示された覚えがない。社会に出て、会社勤めになってからも、具体的指示のある仕事ではなく、漠然と将来を期待されていた感じで、その重荷に潰れた印象が強い。
 このような放任主義の中で人生を過ごしてきた私の生活を規定してきたものは、結局幼い時の夢みたいなものだったように思う。普通の人生であれば、他者からの要求で生活が規定され、それによって意識が規定されるようなことになるのだろう。これはマルクスの言う通りであろう。確かに私の人生は普通ではない。しかし、学者、お坊さん、音楽家もどきではある。
 今にして思えば、本当は普通の人生を歩みたかったのだと思う。好きなことをやってきたのに、幸福な感じがしない。幸福は平凡の中にあるのは確かなようだ。


定食屋さん
 最近、定食屋を二軒見つけた。一軒は昼食専門で、午前中に注文すると、手作りで注文どおりの昼食を作ってくれる。それも、300円と格安だ。今まで、親子丼、カレーライス、五目ご飯、コーン・シチュー、カレーうどんなどを食べさせてもらった。味噌汁、デザート付きだ。もう一軒は夕食専門だが、400円で日替わり料理が食べられる。今まで、「カレーライス、サラダ、スープ、デザート」「豚のしょうが焼き、冷奴、キャベツのサラダ、お吸い物、デザート」「ホイコーロー、シュウマイ、ごはん、スープ」「肉豆腐、酢の物、ご飯、ほうれん草のおひたし、味噌汁」を食べさせてもらった。明日は豚キムチとナムルの予定だ。ボリュームもタップリだ。
 思えば、母が死んでから10年近くになるが、それ以来、ろくなものを食べていない。今日のほうれん草のおひたしと酢の物には、懐かしいやら悲しいやら、複雑な気持ちになった。こんなもの10年近く食べていない。
 人間、歳をとると、楽しみは食べること以外はなくなるものだ。歳のせいか、沢山食べても太らない体質になったのは不思議だが、有難いことだ。
 定食屋の常連とも顔見知りになり、会話を交わすようになった。これも気晴らしになる。定食屋の店員さんも気軽に声をかけてくれる。
 これからも、健康に留意して、おいしいものを沢山食べたいものだ。


古き良きAIと音楽
 私は計算機を用いて音楽の研究をしてきたが、これがAI(人工知能)なのかどうか、長年自信が持てなかった。AI事典などを読んで判断するかぎり、私のアプローチは、別の言い方をすれば、「音楽を対象にした、記号論的計算主義に基づく、計算機シミュレーションによる構成的アプローチ」とは言えるだろう。音楽の知識を記号で表現し、パソコンとLisp言語だけを武器に、音楽の作編曲という分野を扱えば、このようなアプローチになるのは、AIを意識しなくとも、必然的であると言える。
 このようなアプローチは従来の科学とはことなり、音楽を対象に客観的に分析することではない。そのようなアプローチも個人的に行ってきたが、音楽作品を分析しても、明らかにできるのは、コード進行くらいなもので、旋律となるとそう単純ではない。コード進行と旋律とは1対1に対応するわけではないのでそう単純ではないのである。構造分析的アプローチにも限界がある。
 音楽を知るにはいろいろな方法がある。カラオケ、合奏、合唱、演奏、鑑賞などが一般的だろう。他の方法として、作って知るという方法もある。自分で作るだけでなく、計算機に作らせるて調べる、構成的アプローチもあり得る。ジャズで使われる和音やスケールは複雑なので、計算機でこの部分を支援できればという、単純な発想でシステムを作り始めたのだが、コード進行が適当であれば、テンションノートだけで、旋律を作れることを知っていた私は、自動作曲も簡単にできるのではないかと考えた。実際、計算機実験で、コード進行を与えた時の旋律生成条件を調べた。その結果を下に、自動作曲システムを構築しただけだったが、うまく行った。
 知能システムを知識と推論部分に分ければ、私のシステムは、知識表現は複雑だが、推論アルゴリズムは単純なものである。コード進行の部分でも、旋律の部分でも、緊張ー弛緩(不安定ー安定)の原則を利用しただけのアルゴリズムである。コード進行を中心にした楽曲の知識表現部分は多様でありうるので、アルゴリズムが単純でも、多様な音楽作品を作ることが可能である。
 その後、自動作曲部分以外の、作編曲関連システム部分を構築し、現在に至っているが、そろそろネタが尽きてきた。ネタ探しに、いろいろ本や楽譜を漁っているところであるが、なかなか良いアイデアが浮かばない。何か良いネタはないだろうか。一人では限界である。まあ、作編曲は一人で行うのが原則であるが。アイデアだけでも欲しいものである。


Javaと英語 
 Javaはオブジェクト指向で書かなければならないので、始めは馴染めなかったが、次第に英語を読むような感覚でプログラムが読めるようになった。これはおそらく計算機関連用語を含む英語全般の整理の上に、Javaは設計されているからなのだろう。LispでもCLOSを使わずにプログラムを組んでいくと、次第に関数名が長くなる傾向があるが、そういう時にはオブジェクト指向が必要なようだ。
 Javaには必要なものは予め揃っている。後はimportとnewという魔法が使える。
 Javaは英語が得意な人には適した言語だと思う。プログラミングもロジックよりも記憶力の時代になったようだ。可読性の高い言語だと思う。





荒井公康
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/
kimi1955-music@kir.biglobe.ne.jp

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