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zoom RSS 随想集3(再掲)

<<   作成日時 : 2015/09/03 09:56   >>

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原裕ピアノコンサート2006
 4月15日(土)に水野かほるさん企画の「日々の美を集めて」という催しが最終日を無事迎えることとなった。催しの中に、H&Aスタディルームの名誉講師原裕氏によるピアノコンサートも含まれていた。会場は市川市の千葉商科大学の傍にある木内邸であった。江戸川沿いである。小学1年生頃、この近辺の小岩に住んでいたことがあり、市川市にあるN製鋼にI社在職中スカウトされたり(お断りしたが)、木内氏も東大の先輩にあたる人物で、いろいろなご縁を感じ、最終日を選んで、訪れることを決めていた。鶴見駅から、市川駅までJRで行ったが、電車内から見た江戸川は多摩川と一見かわらないのであるが、ふと、「この辺も随分開けたねえ」と亡き母の声がするような気がした。最近不思議なことが起こるのである。自宅の前の99円ショップの、私が「会長」とあだ名している体格の良い男性店員さんが、母の生前の決まり文句であったことを、そっくりそのまま口にするのである。最近はそれが楽しみで夜中に買い物をしに行くようになった。いや、話が逸れてしまった。

木内邸には道に迷うこともなく、午後1時頃到着した。原氏はリハーサル中であった。上品な水野さんとどこかで見たことのある美女が、見守るというか聞き入っていた。ベートーベンの曲が終わったあとで、「原先生」と声をかけてしまったが、どうやら、リハーサルの邪魔をしてしまったようである。

水野さんが、「私は原先生に最初にピアノを習ったんです」と話しかけてきたが、答えようとした時に突然、原先生は、故意にフランスの響きを出した。私は思わず、「あっ、フランス風ですね」と口に出したが、水野さんは気付かなかったらしく、「この建物のことですか?」と返事をした。「いや、いいえ・・・・」と口ごもっている間に、原先生はショパンの「別れの曲」を弾き始めた。アンコールの練習のためである。本当に私はリハーサルの邪魔をしてしまったようである。原先生の後ろで、私もピアノを弾く格好をして、ふざけていたら、それを見て、例の美女は笑い転げていた。原先生は演奏会を前にして、明らかに神経が張り詰めているのが感じられたので、私は小岩に行って来ると、伝え、一旦退散することにした。そして実際に小岩へ向かった。

小岩はすっかり変貌していた。45年前の田園風景は全く消えていた。ただ母校の北小岩小学校と銭湯と一軒のラーメン屋は確かに当時のままであった。夕方、銭湯の帰りに、担任の三角先生が一人で寂しそうにソバをすする姿を目撃したのは、今でも鮮明に記憶に残っている。京成電鉄沿いの雰囲気もかすかに当時を感じさせた。歩くのも疲れたので、タクシーを拾って木内邸へ戻ることにした。60代の運転手さんだったが、性格の良い人で、何時になっても人が並んでいるラーメン屋の話を不思議そうにしたり、なんと以前に鶴見、川崎で臨港バスの運転手をしていたそうである。横浜駅の混雑振り、相鉄線の駅名、などの話で会話が弾んだ。これも不思議なご縁である。タクシーを降りる前に何度もここでよいのかと尋ねてくれ、親切な人であった。私も「お気をつけて」と声をかけて車を降りた。

3時少し前であった。木内邸の職員に毒舌と憎まれ口を少しきいた後、時間が来たので、演奏の部屋へ行った。比較的狭い部屋に美女が大勢たむろしていた。それどころではない。次々に美女が詰めかけてくる。栄町通郵便局の職員そっくりの女性まで現れた。私は美女たちに圧倒され、部屋の外で聴くことにした。男性は私以外には僅か2名で、少し変わって見えたのは、芸術家だったからなのであろうか。一体彼女らと原先生とはいかなる関係であるのか。私は小ホールでのスタインウェイ・ピアノによる演奏をイメージしていたのであるが、完全に的が外れた。

原先生の演奏を聴くのは2度目であったが、1度目は泥酔状態での非公式なものだった。私自身もその時は酔っていた。従って、原先生が本気で弾くのを聴くのは初めてである。最初のバッハのプレリュードでは、まだ緊張感から解放されていない感じがしたが、ベートーベンの三声のフーガの難局場面は、リラックスしてきたせいか、見事な素晴らしい演奏で、心地よい高揚感を味あわせてもらった。数年前、ラベルとドビュッシーの弦楽四重奏をCDで聴いてクラシックに感激したが、それ以来クラシックで感激するのは久しぶりである。しかし、バッハの終止和音はしょぼい。ずっこける。これは原先生が悪いのではない。バッハが悪い。演奏は素晴らしかった。感激した(小泉首相の歴史に残る名言)。

クラシックの演奏会には慣れていないせいか、原先生や水野さんには迷惑をお掛けした思う。この場を借りてお詫びしたい。木内邸の職員や関係者の方々にも軽口をたたいて迷惑をお掛けしたことにもお詫びしたい。(木内先輩すいません。)

今後も、原先生の活躍を願って、筆を置くことにします。


マイナスの数を掛け合わせるとプラスになる理由
 例えば、(−2)X(−3)=6とされるが何故だろうか。多項式の展開を考えてみる。
     
(a + b)(c + d) = ac + ad + bc + bd

となる。ここで、a = 1, b = -3, c = 7, d = -5と置くと、上式は

    (1 - 3)(7 - 5) = (- 2)X2
= (1 + (-3))X(7 + (-5))
= 1X7 + 1X(-5) + (-3)X7 + (-3)X(-5)
= 7 - 5 -21 + (-3)X(-5)
= -19 + (-3)X(-5)
= -4

よって、上式から
    
    (-3)X(-5) = 15

以上から、マイナスの数を掛け合わすとプラスになることが分かる。



影響を受けた音楽の本
 私は正式の音楽教育を受けたわけではないので、音楽に関する知識源は、主に市販の書籍である。なかでも最も勉強になったのは、芥川也寸志著の「音楽の基礎」(岩波新書)という小冊子である。この本には音程に関して親切で詳しい解説がなされている。楽典、和声学、対位法、ジャズの教則本で音程に関して正確に説明している書籍はほとんどない。私の考えでは音程の仕組みと響きについてさえきちんと理解していれば、音楽はそれ程難しいものではないと思う。例えば、和声や対位法に関する本では、なぜ5度平行、8度平行が禁止されるかについて説明すれば、現代人の耳からすれば、これらの音程は非常に空虚な響きがするため、連続して使われるのは嫌われるのである。ただこれも、現代人の耳からすればの話であり、ある音程の響きがどのように聞こえるかに関しては、歴史的な変遷があるらしい。完全8度、4度、5度が美しいと思われた時代もあったという。美しく聞こえると見なされる音程は歴史的に狭くなってきているという。現在では3度とその展開形である6度が美しい響きとされている。しかし、ジャズやフランス近代などでは、2度とその展開である7度を強調する傾向がある。2度で音をぶつければ、その後は音程を広げたいという心理的要求が生まれると言われているが、2度のまま保留することもジャズでは珍しくない。わざと4度重ねの和音を使うこともある。この本では、美しいと思われる音程が2度まで狭められ、これ以上狭めることができないので、今後どのような方向があるのかという問題提起がなされているが、自然でありさえすれば、現実には自由に音程を組み合わせても構わないと言ってよいのではないかと思う。
 クラシックの和声学や対位法の本を初めて読んだときには、こんなもの分かるはずがない、と諦めてしまったが、この本やジャズの教科書を読んだ後で、和声学や対位法の本を読み直してみると不思議に理解できるようになった。和声的に見れば、クラシックはジャズのサブセットになっているので、ジャズ理論を通して、クラシック理論を見てみれば、音楽に関する理解も深まると思う。ジャズとクラシックは対立するものではないと思う。美しいと思われる音程が異なるので、響きも違って聞こえるようである。逆に、ジャズでは対位法的な考え方が希薄なので、クラシックの理論も勉強になる。両方を勉強するに越したことはない。
 音程を正確に数えられることが音楽の基本であると思う。そうして、ある音程がどういう響きがするか確かめてみるとよいと思う。音楽に関して、それほど神秘的に考える必要はないと思う。スクリャービンの神秘和音などと言っても、ジャズから見れば、ドミナント7thにテンションを加えたものになっている。


Lispのこと
 Lispは不思議な言語だ。50代半ばを過ぎてもLispならばまだプログラミングができる。私が転職した80年代にAIブームが起こり、会社から何がやりたいかと問われ、AI(人工知能)をやりたいと言ったのがきっかけで、AI用言語としてのLispに出会った。将来はKE(知識工学者)になって欲しいとのことだったが、エキスパートシステムの時代は来なかった。知識の変化が激しい分野ではエキスパートシステムを作ってもすぐに陳腐化してしまうし、専門家から知識を引き出すことも難しいためだった。現在個人的にやっている音楽関連のシステムでは、今後音楽の知識の変化もないだろうし、一人でできる範囲のものである。
 Lispの教科書ではP.H.Winston、B.K.P.Horn著の「Lisp」第一版、第二版、第三版(ADDISON WESLEY)のお世話になった。転職してからは、これらの教科書を勉強していただけのような感じであった。これらの本はAIの入門書にもなっている。5〜6年勉強したであろうか。Lispは再帰をよく用いるので最初は戸惑ったが、再帰とは数学的帰納法のことだと分かってからは逆に再帰的なプログラミングのほうが理解しやすくなった。
 当時のLispの教科書は、大体Prolog処理系を作るところまでで終わっているものが多かった。最近ではP.Grahamの「On Lisp」や「ANSI Common Lisp」がLispの標準的な教科書になっているようだ。これらはWinstonらの本に比べると難解だ。私のLispプログラミングのスタイルも古臭く、初歩的なものだと思い知らされてしまうような教科書で勉強になるが、あくまでWinstonらの教科書が基本と思う。この程度の基礎がないとP.Grahamの本も理解できないだろう。復刊が望まれる。日本では初心者向けのLispの教科書がなく心配だ。
 6年以上Lispの世界にどっぷりと浸かっていたおかげで、Lispは私にとって英語よりも役に立つ「外国語」になった。リストというデータ構造は非常に柔軟で、リストを操作するLispを使えば、小規模なアプリケーションならば短時間で作成できる。記号処理ばかりでなく、数値処理も可能である。現在のLispは汎用言語と言ってもよい。
 60歳を過ぎてもLispプログラミングが可能かどうか試してみたいと思っている。まあ、ボケ防止の意味でも、プログラミングは続けるつもりだ。


全音と半音と準同型写像
 音階ドレミファソラシドでミとファの間隔とシとドの間隔は「半音」と呼ばれ、その他の間隔は「全音」と呼ばれるのは良く知られていることと思う。ところが何故そう呼ばれるかについてはそれほど自明ではないようである。理系の人にとっては不自然に聞こえるらしい。これは、「音の周波数の集合」と「乗算」の組み合わせである代数系と、「ピッチクラス集合論によって音に対応づけられた数値の集合」と「加算」の組み合わせの代数系が、準同型の関係にあることを考えれば説明がつく。
 ある音を1オクターブ上げるとは、その音の周波数を2倍にすることに等しい。平均律では1オクターブを十二等分に「分割」するという、これまた不自然な表現がなされる。何をどのように分割するのかが不明である。a=(2の十二乗根)とおく。すると次のの対応がある。
    
    音の周波数をa倍する  <−−> 音を「半音」上げる  <−−> 音のピッチクラス集合値に1を加える
    音の周波数をa^2倍する <−−> 音を「全音」上げる  <−−> 音のピッチクラス集合値に2を加える

a(2の十二乗根)の値は約1.06、a^2(その2乗)は約1.12である。ピッチクラス集合論は12を法とする同値類分解であるので、事情はもう少し複雑であるが、ほぼ準同型と例えても構わないと思う。半音や全音という呼称の背景には、周波数とピッチクラス値には一対一に対応し、「2乗」の演算には「2倍」という演算が対応しているという事情があるので、音楽作品では周波数を持ち出さずに音の関係を表現できるという事実がある。
 五線譜なども一見グラフのように見えるのであるが、間隔は等しい目盛りではなく、数学や自然科学で使われるグラフとは性格が異なったものである。これは推測なのであるが、ドレミファソラシドという並びがあまりに自然に聞こえるために、これを記号で表現した場合、視覚的にも滑らかに並べたように見えるように工夫したのではないかと思う。聴覚を視覚化しようとすることが楽譜を考案するきっかけであったことは間違いない。
 記号とは複雑な現象に対してなんとか手がかりを得ようとして考案されるのであろうが、音楽の表現の背後に数学的概念が潜んでいるのは興味深い。音の周波数の関係を調べても、そこから音楽作品が生まれるはずもなく、不毛なことに気づかれたのかも知れない。確かに乗算よりも、加算のほうが、音程の計算などには便利であるし、計算結果も利用しやすい。
 昔の音楽家が代数系を知っていたはずもないので不思議な話ではあると思う。



ピッチクラス集合論と私の音楽システムの関係
ピッチクラス集合論では、次のように定義される。

ある2つの音があって、その周波数がx,aであるとする。このとき、X=(2^n)atpなるような整数nが存在するとき、x,aはオクターブに関して同値であるといい、x〜aとあらわす。ここで、{x|x〜a}であらわされる集合をピッチクラスといい、これには整数による音名を与えることにする。

具体的には次のような対応をとる。私のシステムでの対応も示す。

ピッチクラス値   私のシステム   音名(平均律)
----0-------------1.0--------------ド
----1-------------1.5-----------ド♯ レ♭
----2-------------2.0--------------レ
----3-------------2.5-----------レ♯ ミ♭
----4-------------3.0--------------ミ
----5-------------3.5--------------ファ
----6-------------4.0-----------ファ♯ ソ♭
----7-------------4.5--------------ソ
----8-------------5.0-----------ソ♯ ラ♭
----9-------------5.5--------------ラ
---10-------------6.0-----------ラ♯ シ♭
---11-------------6.5--------------シ

ピッチクラス集合論では、周波数についての物理的モデルに基づいて対応を取っているが、私のような対応を取っても、代数的には同じことである。

以上の対応を取れば、調性の音楽でも、無調の音楽でも、同様の扱いが可能である。  



十二音技法とジャズの融合2
十二音技法に4度重ねの和音を使って作った「不思議なワルツ」です。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/romanntic-waltz.mid

短歌「涼しげに霧雨の降る秋の日に流れ始める不思議なワルツ」

如何でしょうか。

>Tさん (mixiのマイミクさんです)

>不思議と清涼な感じの響きがします。
>どうやって作られたのでしょうか?
>ノウハウが知りたいです。

いつもコメントありがとう御座います。

ふたつ前の日記に紹介したシステムを利用しています。システムの出力を私が適当に解釈して、旋律や和音を作ります。

作られた旋律や和音に4度重ねの和音を付けました。たとえばCはミラレ、G7はファシミといった具合です。4度重ねの和音は機能が曖昧で、ジャズっぽい硬質なサウンドが得られます。機能が曖昧なので無調の音楽でも不自然な感じがしません。

簡単に説明すれば以上だけです。純粋な十二音技法では、和音も音列から作らなければなりませんが、そこは無視しています。うまく和音を付けられれば、十二音技法でも聞きやすい響きが生まれると思いました。

十二音技法に関連する音楽システムでは各種音列を自動的に生成できるように作ってあります。

お会いして説明すれば分かりやすいのでしょうが。私のHPを参考にして頂ければ、大体のことは分かると思います。


LispとPrologとオブジェクト指向
1980年代に日本において第5世代コンピュータプロジェクト(ICOT)が立ち上がり、言語としてPrologが採用された。この言語の仕組みは極めて単純で、事実と変数を含むルール群を記憶しておき、パターンマッチング(正確には逆方向の計算も行うユニフィケーションと言う)によって、変数とマッチしたデータを、発生させた連番(重複しないようにしておく)で繋いで置き、連想リストの形式で保存しておき、質問すると、その連想リストから、変数の値を引き出すというものである。「事実+(変数を含むルール群)」は数学で言えば公理系にあたり、質問(変数を含む)がこの公理系を満たせば、変数の値を返すというものである。変数に値を割り当てられた質問は「定理」ということになる。かつては導出原理というものが使われていたようである。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/prolog.html

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/

Prologは比較的新しい言語であったが、Lispなどで簡単に実現できるため、短命で終わり、現在はProlog単独で使われることはなくなったようである。むしろ、Fortranに次いで古いLispのほうが、新しい機能を容易に付加できる柔軟性があるため、いまだに生き残っている。Lispによるアプリケーションで、Prologの機能も付加し、その機能を利用するのは簡単なことである。Franz社のACL(Allegro Common Lisp)は極めて多機能である。他言語の機能も次々と組み込み、マルチパラダイム言語と化しているのが、Lispの現状である。

Prologは論理型の言語であったが、物事の階層関係のモデル化に適したオブジェクト指向が主流になったのは、論理だけでは対象のモデル化が難しいためであろう。

本当にPrologはどこへ行ったのであろうか。ICOTとは何であったのであろうか。

音楽関連システムにおいてもCLOSを活用しようと思っているのであるが、音楽の知識の階層がどうなっているか、私にもよく理解できていないところがある。下手をすれば記述量が増えてしまう恐れがある。現在はフレーム型知識表現を採用し、データ駆動型のソースコードになっている点は、若干オブジェクト指向的ではあると思う。


不可知論と科学と哲学を巡って
不可知論とは、辞書によれば、「意識に与えられる感覚的経験の背後にある実在は論証的には認識できないという説。そういう実在を認める立場と、その有無も不確実とする立場がある。」とあります。不可知論が上記のようなものだとすれば、自然科学は全く正反対の方向で考えています。まず、素朴実在論を前提にしており、実在を論証しようとするわけではありません。そんなことが不可能なのは自明です。まず実在を無条件に認め、実在ないし、そこから派生する現象を把握し記述するのが自然科学であり、その知見を応用するのが技術です。不可知論が上記のもののようなものならば、観念論の一種であり、自然科学の実在論とは対立するものです。観念論と実在論は両立しません。どちらかを破棄しなければなりません。独我論、不可知論などの観念論を聞いて、理解できないわけではありませんが、現実離れした話にしか聞こえません。もし
このような主張ばかりならば、哲学は百害あって一利なしの、危険な学問でしょう。

私がよく言及する「他者論的転回」と不可知論は関係ない話です。

不可知論の「実在を論証的には認識できない」というのは確かに正しいが、説明した通り、自然科学はこのような営みではないから、科学技術者には関係ないし、私には興味のないことです。




シェファーのストローク(縦棒演算)
 シェファー(H.M.Sheffer)は、1913年に、唯一つの論理記号を用いて、否定、論理積、論理和、含意、双条件を表す方法を導いた。p|qは、p、qがともに真のときにかぎって偽となる、天邪鬼な演算である。

        p  q   p|q
        1  1    0
        1  0    1
        0  1    1
        0  0    1

別の表現では

        p|q = ¬(p∧q) = ¬p∨¬q

シェファーのストロークを使うと

        否定は ¬p = p|p
        論理和は p∨q = (p|p)|(q|q)

となることは、真理表を使ってもわかるが、次のようにしても導くことができる。

        p|p = ¬p∨¬p = ¬p
        (p|p)|(q|q) = (¬p)|(¬q) = (¬¬p)∨(¬¬q) = p∨q

良く知られているように、論理積、含意、双条件は否定と論理和で表されるから、それらをシェファーのストロークで表すことができる。
 良く分からなかったかも知れないが、現代的な言葉で言えば、シェファーのストロークとはNAND回路のことである。上に書いたことは、昔の記号論理学の教科書に書いてあることである。上のことを現代的な言葉で言い直せば、次のようになる。NAND回路の入力側を一つにまとめてしまうとNOT回路になる。NAND回路の出力をNOT回路で反転すればAND回路になる。NAND回路一つとNOT回路二つでOR回路を作ることができる。論理回路を設計するときにはデジタルICを使うが、論理回路の種類が多いと、ICもその種類だけそろえなければならない。しかし、NAND回路のICが一種類あれば、AND回路やOR回路、NOT回路をNAND回路の組み合わせで構成でき、部品の種類が少なくて済み、とても便利である。
 このように、ある論理記号をもとにとって、他の論理演算、従って論理式を表すということは、論理的な問題であるとともに、計算機の製作の上でも重要な課題のひとつであった。
 シェファーのストロークに関しては、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」などにも言及がある。


論理哲学論考5.511
 すべてを包括し、世界を反映する論理が、かくも特殊なかぎ針(シェファーの棒記号)と運針でこと足りるのはなぜか。ひとえにこれらすべてが、限りなく精巧な網目細工へと、世界を映す巨大な鏡へと、編みあげられるからだ。(ヴィトゲンシュタイン)



ゴミ処理問題の一側面
本文
  ごみ処理の問題を調べていくうちに、これは大問題であるという感じがしてきました。環境経済学の話にも出くわし、短い文章ではとても報告できないことが分かりました。そこで、小生は話を可燃ゴミの処理に限定し、その対応や利用技術について、個人的に興味を抱いたものに関してだけ報告することにしました。この点はご了承下さい。ゴミの焼却にともなうダイオキシンの発生や焼却灰の問題から、次世代の焼却炉として注目されているのは、「ガス化溶融炉」で、これはゴミを蒸し焼きにしてガス化し、このガスを燃やすことにより1000〜1300度という高温でゴミを溶融する形式の焼却炉です。高温燃焼でダイオキシンの発生を防ぎ、重金属などの有害成分もガラス固化できるといわれています。しかし、この炉はすべてのゴミを一緒に焼却するため、分別や減量化というゴミへの関心が薄れるのではないかという心配があります。建設費も高く、運転が難しく、技術的に未知の部分が多く、ゴミ処理の原発とも呼ばれ、98年にはドイツのバイエルンでガス漏れ事故が起きています。画期的な焼却技術ではあるものの、リサイクル・リユースを重視する資源循環型社会に逆行するのではないかとの危惧もあります。
  次に、上向きに流動するガスや空気の流れによって、固形燃料を空中に浮遊した状態で燃焼させる「流動層燃焼」という方法があります。流動層燃焼ボイラーは、多孔質または、パンチングメタルのように多数の孔を持つ板に可燃物を置き、木材や都市のゴミなどを含むさまざまな固形燃料を燃やしますが、特に商業的に意義のある石炭燃焼技術の一つとして一般に認められるようになってきました。石炭は石油に比べればまだ無尽蔵にありますから、エネルギー問題としても興味のあるところです。都市ゴミ焼却灰や下水汚泥などの生活廃棄物を主原料としたつくられた「エコセメント」というものがあります。主原料に石灰や粘土を混ぜて約1300度で焼いて作ります。ゴミ焼却灰に含まれるダイオキシンなどの有害物質の無害化と、焼却灰の有効利用を一挙に果たす完全リサイクル商品として期待が大きく、道路の炉盤材や消波ブロックなどに使えるそうです。将来的には国内のセメント需要の一割近くをまかなえると予測されています。
  ゴミ焼却による高温高圧の蒸気でタービンをまわし、発電する「ゴミ発電」は定着しており、都市の衛生工場では、ゴミ発電を利用して所内電力の供給・電力の販売を行い、発電後の蒸気を地域暖房や温水プールに供給しています。炉の耐久性、ゴミ質の不均一性、ゴミの量の変動、重金属分の排出、低発電効率など課題も多いそうです。発電効率をあげるために、ゴミ焼却場を火力発電所に隣接させて利用する構想があります。
  二種類の金属線の両端同士を接続して輪をつくり、二つの接続点を異なる温度に保つと電気が起きますが、この現象はゼーベック効果と呼ばれ、金属線のかわりに二種類の半導体を同じように接合し一端を炎で熱しても同様にゼーベック効果で電気が発生します。この熱で直接電気を起こす半導体素子のことを、「熱発電素子」といいます。アメリカの惑星探査機ボイジャー2号の電源にはシリコン・ゲルマニウム合金製の熱発電素子が使われました。1000度前後で機能するシリコン・ゲルマニウム系の材料の他に、200〜300度の低い温度で電気を発生するビスマス・テルル系の材料など、さまざまな材料の研究開発が行われているそうです。科学技術庁航空宇宙研究所、仙台市、富士電機は1997年1月、ごみ焼却施設の廃熱を利用した熱発電システムを公開しました。4000個の熱発電素子を使った本格的なシステムで、出力は約1kWでした。これは仙台市環境局の西田中工場(仙台市泉区)に設置されました。海外では遠隔地にある無線通信施設の非常用電源として出力500kW程度のシステムが実用化されているそうです。
  プラスティック廃棄物の処理が大きな環境問題となりつつあり、その対策のひとつとして、分解性プラスティックが脚光を浴びてきました。光(主に紫外線)により分解する光分解性プラスティックと微生物により分解される生分解性プラスティックの二つが主流です。後者はグリーンプラともよばれ、微生物が生産するプラスティック、デンプンやセルロースなどの天然素材を主成分にしたもの、さらに分解性を付与した化学合成プラスティックに分類されます。いずれも分解されて低分子化合物となり、最終的には炭酸ガスと水になると考えられています。トウモロコシ・デンプンを分解してブドウ糖をつくり、これを発酵法で乳酸に変換して化学重合法でポリ乳酸を製造するプロセスなどがあります。日本におけるプラスティックの生産量は、1997年の統計で約1500万tに達しているが、そのうち900万t以上が廃棄プラスティックとして排出されています。このような動向から、分解性プラスティックはすでに食料・雑貨、ゴミ袋、農業用フィルムなどに実用化されており、用途開拓の進展とともに生産量も急増されると予想されます。
  最大の難問は、放射性廃棄物でしょうが、放射能自体を消すような技術は原理上不可能です。これができたらノーベル賞は間違いありません。放射能を含む物質をガラスで固めて処理するために、どのような組成のガラスを使うべきかの研究がなされています。
  以上、ゴミ処理問題は、まともに取り扱うと、いろいろな分野を含む大問題となってしまい、小生の興味を引く話題に限定せざるを得ませんでした。その点はご了承下さい。環境経済学などの話題はさすがに手に余ります。


哲学と個別科学と人工知能 
 人工知能などの分野でも、エキスパート・システムが流行ったいた頃は、F.ベーコンの「知識は力なり」という標語が持てはやされたこともありました。人工知能の源泉はライプニッツあたりにあるというのが定説ですが、そのことが人工知能分野の発展に直接寄与するというものでもありません。むしろ人工知能に対する権威付けのために、ライプニッツなどが引き合いに出されるというのが実情です。知識に力はありますが、考え方(推論方式)に拘ったICOT(第5世代コンピュータ開発機構)の方針は、知識というものを軽視して結果的に意味のある成果はほとんどありませんでした。並列処理マシンを開発するために民間需要を喚起したに留まり、人工知能の進展にはそれほど成果がなかったというのが定説です。哲学も、「考え方の学問」という傾向が強く、内容となる具体的な知識を軽視しがちな傾向がありますから、同じように役立たずの学問に終わっているのだと思います。知識を重要視すれば個別科学と同じになりますから、現在の哲学の存在意義は怪しいものとなりますね。


ギブ・アンド・テイク
 この言葉は現代的な冷たくドライな人間関係を象徴するように聞こえるが、そういうことではないようだ。これは古くからある一種のバランス感覚のようなものだと思う。
 与えるばかりでも、貰うばかりでも、いずれの場合にも、人間は負担を感じるものだ。貰えば、申し訳ないという気持ちが生じ、お返しをしなければいけないと感じたり、与えても、適切な応答がないと、不満に思うのは自然な感情だろう。与えたり、貰ったりするものも、お金や品物に限らない。時間、労力、気持ち、感情、言葉など様々なものがやりとりされる。この時に、ギブ・アンド・テイクというバランス感覚が崩れると人間関係は破綻するようだ。私も最近これを経験した。このバランス感覚がない人とは付き合いたくないと思う。
 最近、隣のおばさんが、手作りのコロッケと野菜サラダを持ってきてくれて、後日、私はお返しとしてパイナップルを差し上げた。これでお互いに少し仲良くなったと思うのは気のせいばかりではなかろう。学生時代によく教授がキャッチボールに誘ってくれたが、これもボールをやりとりして親しくしようという気持ちの表れであろう。こういう考え方は素粒子論などにも現れる。ある種の素粒子を交換して別の素粒子同士が結びつくという発想は基本的なものだ。
 ギブ・アンド・テイクという考え方は普遍的なもので人間の思考過程の様々な場面を規定しているように思う。お年賀、お歳暮など挙げればきりが無い。
 子供の頃、ドッジボールは楽しかった。ボールを投げれば、相手も必ず投げ返してくれたから。
 皆さんはどう思われますか?




荒井公康
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/
kimi1955-music@kir.biglobe.ne.jp







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