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<<   作成日時 : 2016/06/08 17:34   >>

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私が通っている教会で知り合ったKさんと、毎週一回、聖書の学び会を行っている。もう半年くらいになるだろうか。教材として、「聖書から学ぶ”豊かな人生シリーズ@〜J(C.C.C)」を使っている。まだ2巻しか終わっていないが、これから始める3巻の冒頭文を読んで、次のようにまとめてみた。

「つまり、彼らの回心の目的と目標は、人々の魂をいまこの地上においても、天の父との日々の交わりに導き入れることにあるということを、クリスチャンたちは充分に自覚していないのです。回心の際に、罪の赦しを受け、神に自分を明け渡すだけでは充分でありません。若い信仰者は、自分の霊的生活を自力で維持することはできないことを理解しなければなりません。そうです、彼は日々、主イエスとの交わりをとおして、天から新しい恵みを受ける必要があります。これは、あわただしい祈りや、聖書からほんの数節を表面的に読むだけでは得られないものです。静かな落ち着いた気持ちで神のみ前に出るために、時間をとらなければなりません。そして、自分自身の弱さと必要を知り、心の中の天からの光といのちとを新しくしていただくために、聖霊をとおして神の働きを待たなくてはなりません。そのとき始めて、一日中、すべての誘惑からキリストの力によって守られることを期待することができるのです。聖霊によって自分たちの生活を新しくし、きよめていただくために、密室において日ごとに神に祈る時間を割く必要があるのです。(アンドリュー・マーレー)」

ここでいう聖霊とは結局、私の心の中に住むキリスト・イエスのことで、私自身もイエスを信じて、神の子とされると聖書にあるから、聖霊とは自分自身に語りかけるなにかのことではないかと思うのである。「神のみ前に出る」というのは、自分自身と向き合うということではないだろうか。天の父との交わりといっても、私には神の声は聞こえないし、間接的に、後から考えてみて、神の導きみたいなものを悟ることがあるのみである。神のみこころは決して人間に直接分かる形では働かないのではないか。私たちは神の御手のうちにあるのは確かだと思うが、神と直接交信できると考えるのはオカルトっぽいのではないか。信仰によって義とされるといっても、信仰のうちに確実なものがあるわけではない。信・望・愛がそろわないとキリスト教は成立しない。パウロもコリント人への第一の手紙(13:2〜13)で次のように言っている。

「たといまた、わたしに預言する力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない・・・・・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。・・・・・・・いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」

日本人には仏教に比べ、キリスト教は分かりにくいと思う。高校の古典などの授業などを通して、仏教思想に触れる機会は多いが、キリスト教に触れる機会は、自ら、教会にでも行かなければ、ほとんどない。はじめのうちは新約聖書しか読まないものだが、読んでいくうちに、新約聖書も旧約聖書を読まないと理解できないことに気づく。旧約の律法全体が新約の愛の思想にまとめられるのである。あと、イスラエルの歴史についてもある程度知らないと、聖書を理解するのは困難だろう。イエスの発言も旧約に基くものがほとんどである。しかし、旧約聖書を読むのは苦通である。ただし、ヨブ記、伝道者の書、箴言は面白く、読みやすいが、東洋的なところがあるためだろう。

【そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、大切な戒めはどれですか。」 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これが第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」】(マタイ22:35〜40)

「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、−−−その教えは真理であって偽りではありませんーーーまた、その油があなたがたに教えたとおり、あなたはキリストのうちにとどまるのです。」(Iヨハネ2:27)

ここで、「キリストから受けたそそぎの油」とは聖霊のことと思われ、この聖霊からすべてのことを教われば、誰からも教えを受ける必要はないとある。この聖霊の教えを、何を媒介にして聞き取ることができるのか、よく分からないのであるが。あるメルマガでは、聖霊のことを次のように説明している。

「聖霊とは「助け主、擁護する人(Advocate)」であり「相談相手」であり「慰める人」である、そういう心強い存在なのです。聖霊は三位一体のひとつを構成する神さまであり、イエスさまが自分の代わりとしてイエスさまを信じる人ひとりひとりに宿らせるために神さまのもとから送られ、一度宿ったらその人に封印されて決してその人を離れないと書かれています。つまりクリスチャンひとりひとりの中には神さまが宿り、その人を決して離れず、その人を守り、その人を慰め、その人を正しい方向へと導くのです。」

最近は、聖霊に満たされたいというか、聖霊にもっと自分を委ねて、楽になりたいという心境になっている。

     神の愛
信仰、希望、愛
そのうち最も大切なものは愛
神を愛せよ
隣人を愛せよ
それは
自己犠牲の愛
他者実現の愛
必ずしも自分の幸せに繋がらないが
お互いに愛し合う時
そこに生じる
神の国



マザー・テレサの次の言葉に出会った。

 私が思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまい、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえも忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう。<マザー・テレサ>

まさに、私の苦しみだ。マザー・テレサは洞察力の鋭い人でもあったようだ。




北島さんから「暗誦聖句」という言葉を教わったので、さっそく、私のブログにも掲載しようと思います。

1.神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3:16

2.わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ヨハネ14:6

3.見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
ヨハネの黙示録3:20

4.もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
Tヨハネ1:9

5.あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
Tコリント10:13

6.だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
Uコリント4:16〜18

7.
神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
詩篇51:12,13

8.疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
マタイ11:28〜30

9.
わたしたちの生涯は御怒りに消え去り
人生はため息のように消えうせます。
人生の年月は七十年程のものです。
健やかな人が八十年を数えても
得るところは労苦と災いにすぎません。
瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
御怒りの力を誰が知りえましょうか。
あなたを畏れ敬うにつれて
あなたの憤りをも知ることでしょう。
生涯の日を正しく数えるように教えてください。
知恵ある心を得ることができますように。
詩篇90:9〜12

10.思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
Tペテロ5:7

11.どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
ピリピ4:6,7

12.何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
マタイ6:33,34

13.
神に従う人はなつめやしのように茂り
レバノンの杉のようにそびえます。
主の家に植えられ
わたしたちの神の庭に茂ります。
白髪になってもなお実を結び
命に溢れ、いきいきとし
述べ伝えるでしょう
わたしの岩と頼む主は正しい方
御もとには不正がない、と。
詩篇92:13〜16

14.
老いの日にも見放さず
わたしに力が尽きても捨て去らないでください。
詩篇71:9

15.イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの身を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
ヨハネ12:23〜25




 福音書の語るさまざまなことのうちで何を重視すべきかについては、信仰者の意見も、学者の意見も、極めて多様である。イエスの受難と死による全人類の罪の贖いをか、復活による永遠の生命への先導をか、審判と終末の告知をか、愛と希望の教えをか。それにより、教派も学派もわかれる。私は一人の、信者でも専門家でもない者として、イエスの教えの内容のうちの、律法の基礎・完成としての愛の教えと、弱く貧しく苦しむ者への福音を、もっとも私に語りかけるものとして、福音書の中核として読みたい。
 最近、教会へ通うようになったが、聖書に見られるイスラエル的ヘブライイズムというものは、ヘレニズム的な徹底的に普遍的・一般的なものの学問訓練を受けた私には、なかなか難しいと思う点も多いが、毎週、教会で礼拝させて頂くことは、大変勉強になっている。
 教会の皆様も、このブログを読んでおられるとののことで、これからも宜しくお願い致します。




さまざまな内容をもっ六十六の書物から聖書は出来上がっていますが、そこには一貫したテーマがあります。

1.天地万物を創造した人格的な神、義と愛の神が存在し、一切のものを究極的に支配されているということ。
2.その神のかたちに創造された人間は、神にそむき罪を犯すようになってしまったということ。
3.その人問を救うために、神はまずアブラハムを選び、かれの子孫を神の民として用意したこと、そしてその民のひとりとして神の「ひとり子」イエスが生まれ、メシヤ=キリストとして人類を救う計画を実現したということ。
4.聖霊の働きによってキリストを信じるようになった神の民たちは、教会を形づくり、神のみこころにしたがって生きることを通し、この世界で神の栄光を現すよう期待されていること。
5.救いは終末においてキリストが再び来られることによって、最終的に完成すること。

旧・新約聖書の内容は、この五つのポイントのどれかに関係しているといえるでしょう。




詩編
49:9 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。墓を見ないであろうか。
49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、自分の財産を他人に残すのを。
49:11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、自分たちの土地に、自分たちの名をつける。
49:12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。人は滅びうせる獣に等しい。
49:13 これが愚か者どもの道、彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。
49:14 彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。
49:15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。
49:16 恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。
49:17 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
49:18 彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。
49:19 あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。
49:20 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。

伝道者の書
3:19 人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。
3:20 みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。
3:21 だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。
3:22 私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。




【ローマ人への手紙】
13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

【ヨハネの手紙第一】
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
4:17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
4:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。

【コリント人への手紙第一】
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

【ガラテア人への手紙】
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。



私は時々、何もしたくないのでもないが、気力が失せ、一日中なにもせずグッタリとして過ごして、余計に疲労感を感じてしまうことがある。今日も今頃の時間になってから起きだして、両親の写真を前で、リコーダーを吹いてみたり、メルマガで購読している聖書関連の記事に偶然出会って、少なからず、癒される経験さえもしばらく以前から続けてている。

783.マタイの福音書
5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
5:45 天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
6:25 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。
6:30 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。
6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

の箇所から、「神の国とその義をまず第一に求めなさい。」とあるから、教会での礼拝を守ることだと解釈しておく。間違っていたら、ご指摘願いたい。余計なことを心配しなくても、神が用意してくれということあろうか。

『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
(マタイ12:7)
But if you had known what this means, ‘I desire compassion, and not a sacrifice,’ you would not have condemned the innocent.
(Matthew12:7)

それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。命を救うことなのか、それとも殺すことなのか」と言われた。彼らは黙っていた。
(マルコ3:4)
And He said to them, “Is it lawful to do good or to do harm on the Sabbath, to save a life or to kill?” But they kept silent.
(Mark3:4)

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。
(マタイ22:36ー40)
“Teacher, which is the great commandment in the Law?”
And He said to him, “‘You shall love the Lord your God with all your heart, and with all your soul, and with all your mind.’
This is the great and foremost commandment.
The second is like it, ‘You shall love your neighbor as yourself.’
On these two commandments depend the whole Law and the Prophets.”
(Matthew22:36-40)

私も、心配事も無気力感も神に任せてしまい、自然と力が湧いてくるのを待とう。先のことを思い煩っても仕方がないし、なるようにしかならん。私は全てを神に委ねるよ。アーメン。



人生はむなしい。なんのために生きているか、若い頃からわからなかった。だから、ちゃんとした目標ももたずに、中途半端な人生になってしまった。いまでも、なんのために生きているわからず、死ぬこともできず、ただ生きている。しかし、私自身は不幸という自覚はない。伝道者の書では、しあわせを見つけ、飲んだり食べたりして楽しむことを賛美している。

聖書の「伝道者の書」は、人生のむなしさを強調しているが、どう生きるべきかの指針も示している。いくつか、引用したい。

1.「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見出すよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。実に、神から離れて、だれが楽しむことができようか。なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。」(2:24〜26)

      私もささやかながら、コンビニで買う、菓子パンと緑茶の味のコンビネーションを
      楽しんだり、読書で知恵や知識と喜びを得ている。これらも神の導きでなくなん
      だろうか。神から離れて楽しみはない。

2.「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだり、すべての労苦の中にしあわせを見出すこともまた神の賜物であることを」(3:12〜13)

      しあわせも神の賜物なのだ。神に感謝したい。

3.「私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。」(3:22)

      仕事は大変でも、仕事ができることは、大きな喜びだ。私ももっと働きたかった
      が、思うようにいかなかったの残念だ。

4.「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」(5:18〜20)

      これは、私にも当てはまる。

5.「さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたの行いを喜んでおられる。」(9:7)

      神も、私たちが飲んだり、食べたりして、楽しむことを喜んでおられる。

6.「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、人の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。」(9:9)

      私に妻がいないのは残念だが、特に悔いはない。ただ、寂しい。

7.「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。」(11:8)

      人生はもちろん良いことばかりでない。

8.「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:14)

      すべて、神の賜物なのだら、神を恐れ、神の命令を守るのが大切。




 神の存在証明を人間がするというのは、信仰という立場からは本末転倒の冒涜というものであろうが、いくつか載せてみる。私個人としては、神に私自身の存在証明を希うばかりであるが。

アンセルムスによるもの
定義 神は、それよりも大なるものが可能でない対象である。
仮定1 神は、理解において存在する。
仮定2 神は事実において存在する可能性がある。[可能性]
仮定3 もし任意の対象が、理解においてのみ存在し、事実において存在する可能性があれば、その対象は、それ自身よりも大なる可能性がある。
背理4 神は、理解においてのみ存在すると仮定する。
背理5 神は、神自身よりも大なる可能性がある。
背理6 神は、神自身よりも大なるものが可能な対象となる。
背理7 それよりも大なるものが可能でない対象が、それよりも大なるものが可能な対象となる。
背理8 神は、理解においてのみ存在することはない。
結論 神は、事実において存在しなければならない。[必然性]

これは、存在論的証明で、観察や経験はなく、神の定義や概念そのものから神の存在を導く方法である。推論形式は演繹的であり、そのため「ア・プリオリ証明」とも呼ばれる。

トマス・アクィナスによるもの
仮定1 すべての結果には、原因がある。
仮定2 因果関係は、無限に連鎖しない。
結論 因果関係の最初に、第一原因(神)が存在しなければならない。

これはア・ポステリオリな論証で、経験的に受け入れられた事実を基に、その原動者としての神の存在を導こうとする方法である。

デカルトによるもの
仮定1 神は完全である。[定義]
仮定2 もし神が完全であれば、神は存在する。
結論 ゆえに、神は存在する。

ゲーデルの存在論的証明
肯定的であることは、一つの性質である。
公理1 もしPが肯定的性質であり、Qも肯定的性質であれば、PかつQも肯定的性質である。
公理2 性質は、肯定的であるか、肯定的でないかのどちらかである。
定義1 対象xがすべての肯定的性質を持つときに限って、xは神性Gである。つまり、すべての性質P二対して、Pが肯定的ならばPを所有する対象xが、神性Gである。
定義2 任意の対象xが性質Pを持つとき、xの任意の性質Qに対して、Pを持つ任意の対象yが必然的にQも所有するとき、Pはxの本質である。
公理3 在る性質が肯定的であれば、それは必然的に肯定的である。ある性質が肯定的でなければ、それは必然的に肯定的でない。
定理1 もし対象xが神性Gを持つならば、Gはxの本質である。
定義3 対象xの任意の本質Pに対して、Pを持つ対象が少なくとも一つ存在するときに限って、xは必然的存在Eである。
公理4 必然的存在Eは、肯定的性質である。
定理2 もし対象xが神性Gを持つならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在する。そこで、神性Gを持つ対象が少なくとも一つ存在するならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在する。よって、神性Gを持つ対象xが少なくとも一つ存在することが可能ならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在することも可能である。したがって、Gを持つ対象xが少なくとも一つ存在することが可能ならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在する。
公理5 もし性質Aが肯定的であり、すべてのxに対して、Aを所有するxが必然的にBも所有するならば、Bも肯定的である。このことは、自己同一性x=xが肯定的であり、自己矛盾性x#xが否定的であることを意味する。

この証明の要点

神性Gは、肯定的性質である。任意の肯定的性質Pに対して、Pを持つ対象が少なくとも一つ存在する可能性がある。したがって、神性Gを所有する対象xが少なくとも一つ存在する可能性がある。この結果に定理2を適用すると、Gを所有する対象xが、少なくとも一つ必然的に存在する。さらに、定理1と定義2により、その対象xは、Gを唯一つ持つ対象である。ゆえに、唯一の神が存在する。


Wikipediaより
「複雑な化合物が満ち溢れた原始海洋で数十億年の年月をかけてさえも、DNAと認識される分子が偶然に構成されるということは確率的にありえない。DNA分子が64種類のトリヌクレオチドが400個集まってできたものだと考えると、その構成パターンは3×である。この宇宙に存在する生命のDNAの種類は多く見積もっても2.5×なので[2] 、3×と比べればゼロに等しい」(ゆえに、生命は何者かに創造されたとしか考えられず、神は存在する)











荒井公康
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kimmusic/
kimi1955-music@kir.biglobe.ne.jp



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